謹慎前夜
慶喜が寛永寺に移るべく江戸城を出発したのは、渋沢栄一が編纂した『徳川慶喜公伝』によると、午前5時頃だったとされています。そのとき「近藤勇は其手兵を以て沿道に潜み、見え隠れに之を警戒せり」と、同書は近藤の消息を伝えています。
『徳川慶喜公伝』巻四p313
その前夜、慶喜は臣下に対して軽挙妄動を慎むよう諭達書を発しました。
此度 御追討使御差向可被遊段、被 仰出候哉之趣、遙ニ奉承知、誠以驚入奉恐入候次第ニ候、右ハ全ク、予が一身不束ヨリ生シ候事ニテ 天怒ニ觸候段、一言之申上樣無之儀ニ付、何樣之 御沙汰有之候共、無遺憾奉命致シ候心得ニテ、別紙之通 奏聞狀差出候、依之、東叡山ニ退キ謹愼罷在、罪ヲ一身ニ引受、只管 朝廷へ御詑申上、億萬之生靈塗炭之苦ヲ免レ候樣致度卜至願此事ニ候、就テハ何レモ予カ意ヲ軆認シ、心得違無之、恭順之道取失ハサル樣可致候。
『復古記』第二冊p335
大意
このたび(朝廷から)追討使を差し向けられたことを知って、誠に驚くとともに恐れ入った。これはすべて予ひとりが不束(ふつつか)だったために生じたことで、天皇様がお怒りになったことについては、一言も申し上げようがない。だから、どのような御沙汰があろうとも、残念とは思わずに御命令に従うつもりで、別紙のとおり奏聞状を(朝廷に)差し出した。
これに依って(江戸城を退去して)東叡山(寛永寺のこと)に退いて謹慎し、罪を一身に引き受け、ひたすら朝廷ヘお詫び申し上げ、(戦争を避けて)多くの民衆を苦しめないようにしたい。それこそが願いなので、誰もが予の意図を体認(頭で理解するのではなく、身体で認識すること)して、心得違いなく、(朝廷に)恭順することを忘れないようにせよ。
要するに慶喜は臣下に対して自分ひとりで罪を背負う考えを示し、心得違い(新政府軍に対する抗戦)がないように誡めているのです。そして、自分ひとりで罪を背負う考えは朝廷に差し出した奏聞状にも記され、そのかわり江戸攻撃の中止を求めたのでした。どうして慶喜は身を捨ててまで戦いを避けようとしたのでしょうか?
慶喜が諭達書を発したのと同じ日、つまり寛永寺へ移る前夜のことですが、勝海舟は文書ばかりでなく慶喜の生の声を聞いています。
君上仰ニ曰、我不肖多年禁闕ニ接近シ奉リ、朝廷ニ奉對テ御疎意ナシ、伏見之一擧、實ニ不肖ノ指令ヲ失セシニ因レリ、不計モ朝敵之名ヲ蒙ルニ到リテ今マタ無辭、ヒトヘニ 天裁ヲ仰キテ、從來之落度ヲ謝セム、且爾等憤激其謂レ無ニアラストイヘトモ、一戰結テ不解ニ到レハ、印度、支那之覆轍ニ落入、 皇國瓦解シ、萬民塗炭ニ陷入ラシムルニ不忍、其罪ヲ重ネテ益 天怒ニ觸レントス、臣等モ我カ此意ニ體認シ、敢テ暴動スルナカレ、若聞カスシテ輕擧ヲ爲サム者ハ、我カ臣ニアラス、既ニ伏見之一擧、我カ命ヲ用ヰス、甚敷ハ、不肖ヲ廢シテ事ヲ發セント成スニ到ル、再ヒ指令ニ戾リテ我カ意ヲ傷フナカレ、
『復古記』第二冊p337
『海舟全集』第九巻p122(前掲『復古記』と同内容ながら表記が異なります)
大意
上様は仰せられた。私は多年にわたって京都御所の近くにいたので、朝廷をうとんじる気持ちはない。伏見の戦いは、実に私の指令が行き届かなかったのがいけなかった。はからずも朝敵の名を蒙ることになり、いままた(朝廷に対して)いうべき言葉がない。偏に天皇様の裁決を仰いで、これまでの落ち度を謝罪したい。そして、おまえたち(幕臣)が憤激するのも謂われがないわけではないけれども、戦いが長引けばインドや中国のような(列強に蚕食される)事態に陥り、皇国(日本)は瓦解し、万民が苦しむことになるのは忍びない。そうやって罪を重ねれば、ますます天皇様の怒りに触れるだろう。臣下の者たちも私の考えを身体で受け止めて、あえて暴動しないようにせよ。もし(私の考えを)聞かないで軽挙に走る者があれば、それは私の臣下ではない。すでに伏見の戦いでは、私の命令に従わず、甚だしい者は私を殺してでも戦おうとしていたほどだ。再び(私の)指令に従って、私の考えを損なわないようにせよ。
慶喜がいうとおり、鳥羽・伏見の戦いの前に大坂城では幕臣や会津・桑名藩士らが「上様を刺し奉っても」戦をするのだと息巻いていました。そのあげく戦いに敗れてしまったのですから、慶喜は身を挺してでも食いとめるべきだったのです。そして、今度こそ強い決意で戦争を食いとめるつもりでいました。
近藤が「見え隠れに警戒した」のは、薩長が送り込んでいたかもしれない刺客よりも、むしろ跳ねっ返りの幕臣だったのではないでしょうか?
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