近藤勇・流山前後05 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

松平容保死罪の方針
慶応四年二月十六日(グレゴリオ歴1868年3月9日)

 この日、新政府軍の奥羽先鋒総督府(東北方面軍司令部)は、大総督府(新政府軍総司令部)に対し、鳥羽・伏見の戦いの開戦責任を問われている松平容保をどう処分するかについて問い合わせました。

十六日、二總督、書ヲ大總督府ニ致シテ、松平容保、肥後○舊會津藩主、酒井忠篤左衞門尉○莊內藩主、ノ處分ヲ稟問ス、明日、大總督府、答書シテ容保ハ罪死ニ當ル、忠篤ハ宜シク久松定昭、伊豫○舊伊豫松山藩主、松平賴聽讃岐○舊高松藩主、時ニ二人封地ヲ致シ屛居シテ朝裁ヲ待ツ、ニ準擬スヘキヲ報ス

『復古記』第十二冊p192


 ここでいう二総督とは、奥羽先鋒総督兼鎮撫使の澤為量と、副総督の醍醐忠敬のことです。この二人の名前で発せられた文書ではありますが、たいていの場合、文書の内容を起案するのは下参謀の役目でした。この時点での下参謀は品川弥二郎(長州藩士)で、のちに世良修蔵と交替しています。
 書翰を往復させた双方が、まだ現地に行っていないので、大総督府からの回答は早くもその翌日に発せられました。それが松平容保は死罪に当たるという厳しい内容だったのです。錦旗・節刀を賜った大総督たる熾仁親王様は、天皇様の代理人という立場ですから、その方針は簡単に覆せるものではありません。もちろん、この回答も大総督府の下参謀が起案したと考えるのが妥当です。このとき大総督府の下参謀だったのは西郷隆盛(薩摩藩士)と、林通顕(宇和島藩士)の二人でした。ただし、隆盛は薩摩藩兵の指揮官を兼ねていたので、このときすでに東海道を江戸へ向けて移動中でした。そのため厳しい方針を示すことを決めたのは通顕だったと考えざるを得ません。宇和島藩といえば春嶽の越前藩と同じく公議政体派で、開戦前は戦争回避に努めていました。それが水の泡になったのは、会津藩を含む旧幕府側の強硬派が鳥羽・伏見の戦いを起こしたからだというのも一面の真理です。それが容保死罪の方針に繋がったのだと、筆者は想像しています。しかし、隆盛が大総督府にいたとしても、たいして結果はかわらなかっただろうとも思います。この時期、隆盛は大久保利通への書翰で慶喜の処分に対する強硬姿勢を示していたからです。


慶喜退隠の嘆願、甚だもって不届き千万、是非、切腹迄には参り申さず候ては、あい済まず
『西郷隆盛伝』第四巻p94

 のちに歴史的美談たる江戸開城の立役者となる隆盛が、本気で強硬論を唱えていたとは考えがたいのですが、こういう強硬姿勢を示していたことは事実です。その真意は、あまりに和平ムードに傾くと、徳川家の所領没収などの処分条件が緩くなりすぎてしまいますから、いったんは強硬姿勢を示しておくべきだということではないかと思われます。
 また、慶喜と血縁を持つ熾仁親王様が大総督に任ぜられた意味も、隆盛は理解していたことでしょう。どう見ても慶喜の代理人として輪王寺宮様が、天皇様の代理人である熾仁親王様と和平を結び、天下万民を戦火から免れさせるというシナリオにしかなりえません。
 そこからすると、江戸開城という劇場政治の名場面で、隆盛は悪役を演じるつもりだったのでしょう。そうすることで主役となるべき熾仁親王様を引き立てようとした、などと考えては穿ちすぎでしょうか?
 実際には隆盛と勝海舟の二人が主役を演じたわけですが、そうなった理由には近藤勇が深く関係しています。それについては、のちのち論じていくことにいたします。



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