
thank you伝道師 ナースりん

先日、世界1受けたい授業だったかな

その授業の1つに、
武田鉄也さんの授業がありました。
「教育から体罰は消せるか?」
確かそんなタイトルだったように
記憶しています (若干、記憶曖昧

その授業の中で、
あるサッカーの顧問と生徒の在り方が
放映されました

サッカー部はフリーの日が3日、
全員参加の練習日が2日だそうです。
エッ

私の頭の中にある「部活」は、
ほぼ毎日、
みんなで練習するものだ…
そんな思い込みが出来上がっていたので、
その時点で 「ド

生徒の自由なんです。
テレビの中で、ある生徒は
「試験が終わったばかりなので、今日は帰ります」
…そういうコもいます。
グラウンドで各々練習をしてるコもいます。
それでOK

週に2回の練習では、
部員全員が練習に励んでいます。
上手くできないとき、
気になることを見つけたとき、
先生は、必ず個人の名前を呼び、
怒るのでもなく、
責めるのでもなく…
「今のどう思ってる?」
…と質問するのです。
…そう生徒自身に、自分を振り返り
解決方法を見つけ出すまで先生は待ちます。
そこに「否定」も「卑下」もありません。
そして部員での全体練習をしながら、
部員全員で問題点を抽出し、
話し合い…練習に向かっていくのです。
それだけではなく

…先生は、部員一人ひとりと
交換日記

必ずコメントを書き込んでいました。
顧問の先生が指導したチームは、
過去に優勝を果たしていたり…
実績もちゃんとあるんですよね

武田鉄也さんも言われていましたが、
そこにあるのは
教師と生徒の間の絆。
信頼関係が築かれているということです。
体罰は、
相手を信頼していないから、
暴力という形で従わせようとする、
(自分が正しいと力で誇示する)
悲しき行為

信頼し合っているから、
答えを自ら出すまで待つことができて、
信頼してるから、
やるときはやる!…それぞれが考え、
練習の取り組み方を、
それぞれが決めることができるのです。
自分のために…仲間のために…。
練習をさぼれば、
それだけチームワークが悪くなりやすいもの。
…そうならないために、
自分は何ができるか…を各自が考える力を
ちゃんと学んでいるんですね。
こちらが答えを出すことはカンタン極まりないです。
しかしながら、
それでは「自分で考える力」を、
奪ってしまうのです。
先生はそれを知っていて、
生徒を信じ、
待つ姿勢で指導を続けてこられたんですね。
強制的に「毎日」練習をするより、
(その努力ももちろん、素晴らしいことです!)
自分で練習時間やメニューを決める方法も効果的で、
ずっと生徒の心の成長に繋がっています。
信頼関係が根底にあるから、
交換日記の

「彼女ができました


そして今、私が読んでいる


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これもインディアンの教えに関するもので、
この本

「この大地の上に生きるものにとって一番大事なもの」
それは「信頼」
だと書かれていました。
時を同じくして

同じ情報が
私のところへ流れてきたこと…

これは単なる偶然ではないのでしょうね…

「信頼のないところには何も起こらない」
…と書かれています。
「信頼」に大切なことが「受け入れる」ということ。
時々「受け入れる」と「受け止める」の意味が、
ゴチャゴチャになってしまうのですが、
「受け入れる」とは、
相手の存在、考え…相手のすべてを分かち合うこと。
相手が何をどう考え、どうしたいのか…
自分のそれとの違いを理解し(分かち)、
自分が理解したことは何かを伝え(シェア)、
お互いがお互いを理解し合う
つまり、それが分かち合うこと。
「受け止める」とは、
相手の考えや行動方法などを
自分のそれと同化させて考ようとすること。
時には自分を押し殺して合わせる
そのようなニュアンスを感じます。
…極端に言うと、
そう解釈してもいいのかなと思います。
ともすれば、
混乱や諍いを避けるため、
或いは…
自分が弱い立場になることを避ける為、
「受け止める」ことに
必死になっていないでしょうか?
「YESMAN」は、
自分の気持ちにウソを付くことではなく、
あなたの考えは分かったよ~



自分で考えることを止め、
奴隷のように従ってみても、
その場はま~るく収まっている様ですが、
相手に対する「信頼」は皆無です。
相手に感じるものは
「恐怖」「怒り」「不安」「憎しみ」…
そんな感情ではないでしょうか。。。
こんな悲しい世界で、
多くの人間が、
子供も大人も出口を探し続けてます。
相手本人に対して、
その感情をぶつけられたなら、
もう一度、
分かり合うチャンスがやって来ます。
何度も何度も…チャンスはやって来る

時として、
「恐怖」などの負の感情が、
自分よりも弱く思えるものへと
矛先を変えて攻撃態勢に入っていく…
それは言葉・行動の暴力となり、
体罰であり…また「いじめ」でもあると思います。
正直言ってしまえば、
体罰もいじめであり、いじめは体罰と同じ。
大人の世界にもいじめは横行しています。
そう思えませんか?
そうですよね

自分の考えに従わせ、
表面上では仲良いフリをし、
影で悪口を言い合う…
大人の世界は、子供の世界よりも
下手をすれば暗黒です。
「大人気ない」…コトに気づいていないのです。
そんな図を見たことは、
はたまた経験したことは…ありませんか?
そこに「信頼関係」はありましたか?
私自身の体験を思い出しても、
自信を持って(


そこに「信頼関係はなかった」と。。。
相手だけではなく、自分自身に対してもです。
長々と書いてきましたが…
今の社会の中で、
「信頼関係の構築されている環境」が
どのくらいあるでしょう。
家庭・職場・学校・友達関係・親戚…関係性は
数え切れないほどあります。
ですが

心からお互いに信頼し合い、
安心できる場所、相手はいるのでしょうか?
自分が汚いと思うことに手を染めると、
または行動してしまうと、
(責任のなすり付けや、無責任な対応、横領、悪口を言うなど…)
傷をなめ合う関係が必要になり、
自分にウソをついて
その集団に付き合うハメになります。
それが、今の教育現場であり…社会の相関図です。
体罰やいじめが、これほどまでに
社会現象化した基盤ではなんでしょうか。
そこに…信頼関係は構築されていなかった。
築いてこれなかった現実ではないでしょうか?
本

こうも言っています。
「信頼のあるところには、何かが起きる…」…と。
体罰がダメ、いじめはダメ…常識的にはその通り!
私の個人的意見としては、
生まれてから、
親たちが可愛がり、
なんでもお世話してくれて、
自分の思い通りになる赤ちゃんから幼児期、
他人を認識し始める幼児期から思春期、
自分と他人との違い、
思い通りにならないこともあることを知り、
それでも自分が1番と思いたい
自分の中の葛藤のときを経て、
他人の痛みに気づき、
共存できるようになるために
多くの子供たちが通る門が、
他者とのぶつかり合いだと思うんです。
それは「いじめ」と紙一重…成長の登竜門だと
思えるんですよね。
大なり小なり、
体験していくことが、
他人を知ることになり、
やがて、分かち合うことのレッスンになります。
信じて待つ、
相手を受け入れる、
杓子定規で物事を判断しない勇気…
今こそ、目覚めていきましょう

愛情のこもった指導を
体罰と一緒くたにしてしまいたくない。
本気で子供を愛するとき、
本気で相手を思うとき…厳しく在る勇気を持つ!
それも「愛」ゆえではないでしょうか。

