風水2 (陰陽2) | 獨と玖人の舌先三寸

風水2 (陰陽2)

風水は古代中国の思想で、都市、住居、建物、墓などの位置の吉凶禍福を決定するために用いられてきた、気の流れを物の位置で制御しようという思想です。“堪輿(かんよ)”ともいいます。
風水では都市や住居(すなわち生者の居住空間)を“陽宅(ようたく)”、墳墓(すなわち死者の居住空間)を”陰宅(いんたく)”と呼んで区別します。
宜しきを得れば、生者は子孫繁栄、死者は永く幸を受けることができるとしています。
日本の風水は、古代からの相宅や相墓といった占いの技術が陰陽五行説に基づきつつ総合されて成立しました。
風水は大別すると、
地形読破術である“巒頭(らんとう)”。その土地の気の勢いや質を地形等の形成を目で見える有形のもので判断する方法で、形法、形勢派、巒体派などとも呼ばれます。
時間によって変化する天地間の気を判断する“理気(りき)”。陰陽五行や八卦、易理(易)、方位など目に見えないもので判断する方法で、理法、理気派、屋宅派などとも呼ばれます。

日本においては、風水が完全に成立する以前の一部の理論が陰陽道や家相として取り入れられたため、中国とは別の形で独自の発展を遂げています。近年、風水という名称で行なわれている占いの多くは、“風水”そのものではなく、家相術や九星気学などのアレンジに過ぎないのです。
中国での風水理論の完成は宋から明時代なのですが、それ以前の飛鳥・奈良時代に日本に伝わった理論(「風水」とは呼ばれていない、地理理論)が、独自の発展を遂げたのです。特に、陰陽道や家相として発展しました。
平城京、平安京の立地が風水に則っているとされますが、当時採用された“四神相応”は、四神の方角が固定化されており、すでに日本独自理論です。
江戸が風水都市であるという記載は多くの書籍で見られますが、江戸の建設に深く関わった天海僧正などが風水に通じていた、もしくは都市計画に風水を採用した、という史料・文献は存在していません。
1990年代より風水ブームが起こりました。しかし、風水の名称を付与して行われている占いの多くは、風水そのものではありません。

ドクターなんとかサンが嘘をついているとかデタラメとか言ってるんじゃありません。信仰される方はどうぞご自由に、です。ただ、中国本土の風水とはベツモノですよ、と書き記したに過ぎません。
風の通りと水の通りの良い所を探す……つまり、住み処を構える場所を見つける、井戸を見つける、というのが起源だったんです(記憶が正しければ(-ω-;))。