天神3 (菅原道真公 年表) | 獨と玖人の舌先三寸

天神3 (菅原道真公 年表)

●菅公 年表――
承和12(845)年6月25日誕生。
幼少より詩歌に才を見せる。
(※昇進の歴史。ここは飛ばしても問題ありません。)
貞観4(862)年、18歳で文章生になる。
貞観9(867)年、文章生のうち2名が選ばれる文章得業生になり、正六位下に叙せられ、下野権少掾となる。
貞観12(870)年、方略試に中の上で合格、規定では3階位を進めるべきところ、それでは五位に達してしまうというので1階のみ昇進で正六位上に叙せられる。
貞観13(871)年、玄蕃助へ転任、少内記に遷任。
貞観16(874)年、従五位下となり兵部少輔任官、民部少輔遷任。
貞観19(877)年、式部少輔遷任。家職、文章博士を兼任。
元慶3(879)年、従五位上に叙せられる。
元慶7(883)年、加賀権守兼任、治部権大輔兼任。
仁和2(886)年、讃岐守遷任、式部少輔 兼 文章博士を辞し、任国へ下向。
仁和4(888)年、阿衡事件に際し、藤原基経に意見書を寄せて諌め、事件を収める。
仁和6・寛平2(890)年、任地 讃岐国より帰京。
宇多天皇の信任絶大。
寛平3(891)年、蔵人頭補任。式部少輔、左中弁兼務。
寛平4(892)年、従四位下に叙せられ、左京大夫を兼任。
寛平5(893)年、参議、式部大輔補任。左大弁、勘解由長官、春宮亮兼任。
寛平6(894)年、遣唐大使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止。延喜7(907)年に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろした。 侍従兼任。
寛平7(895)年、近江守兼任、従三位に叙され権中納言転任。春宮権大夫兼任。長女 衍子を宇多天皇の女御とする。
寛平8(896)年、民部卿兼任。
寛平9(897)年、娘を宇多天皇の子・斉世親王の妻とする。宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。正三位叙され権大納言に転任、右近衛大将、中宮大夫を兼任。また同年中に宇多天皇の元で太政官を統率し、道真とも親交があった右大臣 源能有(文徳天皇の皇子、宇多天皇の従兄弟)が薨去している。

醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続ける。が、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力集中を嫌う藤原氏など有力貴族の反発が表面化していく。また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも、道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調する者がいた。
昌泰2(899)年、右大臣に転任。
昌泰3(900)年、三善清行が道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを受け容れず。
延喜元(901)年、従二位に叙せられるが、斉世親王を皇位に就け、醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告(ぶこく)され、罪を得て大宰権帥に左遷された。
宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。長男高視を初め、子供4人が流刑に処される(昌泰の変)。
この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説、宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在し道真がそれに巻き込まれたとする説ほか諸説。
延喜3(903)年、薨去(こうきょ。皇族や三位以上の公卿の死)。

延喜9(909)年、政敵 藤原時平が39歳で病死。
延喜22(922)年、右大臣復帰、贈正二位。
延喜23(923)年、醍醐天皇の皇子、東宮の保明親王(時平の甥)薨去。永延元(987)年、一条天皇より“北野天満宮天神”贈称。
延長3(925)年、保明親王の息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)卒去(そつきょ。王や女王および四位や五位の位階をもつ者の死)。
延長8(930)年、朝議中の清涼殿に落雷、昌泰の変に関与したとされる大納言 藤原清貫はじめ朝廷要人に多くの死傷者を出す(清涼殿落雷事件)。3ヶ月後、落雷事件を目撃して体調を崩していた醍醐天皇 崩御(ほうぎょ。天皇や皇帝の死。登遐(とうか)とも)。
正暦4(993)年、5月追贈 正一位左大臣。10月追贈 太政大臣。