葬式仏教/檀家制度/ | 獨と玖人の舌先三寸

葬式仏教/檀家制度/

仏教も締め括りになります(多分w)。
ひとつ閑話を挟んでしまいましたが、ひとまず――(+ω+)


日本の葬儀の大部分は、仏式で行われています。
本来の仏教は、葬送儀礼を重視する宗教ではありません。現代、葬儀のためだけに存在しているように誰の目にも見えるでしょう┐(´Д`≡´Д`)┌
そんな仏教の姿を揶揄して、「葬式仏教」と呼ばれます。本来の仏教の在り方から大きく隔たった、葬式の際にしか必要とされない…┐(´Д`≡´Д`)┌

釈迦は、弟子に死後の遺骸の処置を問われた際に、「僧侶は遺骸の供養等考えず真理の追求に専念すべきだ」、「供養は在家の信者がしてくれる」、と答えたとされています。現に、僧侶(比丘)が遺体・遺骨・墓石等にタッチしないのは、この教えのためです。大戦後しばらくは、隠亡(おんぼう)と呼ばれる人達が、今で言う斎場職員のような雑務を行っていました。現在、三十五日、四十九日等の納骨が行われる際は、石材店の職人、葬祭業者の職員が同行し、墓石の開閉、納骨の介助等をしてくれます。
また振り返って――インドから中国へと伝播し、民衆へと教化が行われるうちに、漢民族の道教や儒教に由来する先祖供養の民間信仰と習合し、仏教は葬送儀礼も司る様になりました。
例えば位牌は、儒教の葬礼に用いられる神主(しんしゅ)が変化したものだと考えられています。
日本伝来後、仏教は豪族など上層階級の心を捉え、篤く信仰されました。平安時代の貴族の葬儀は仏教寺院で行われ、僧侶が念仏し、墓に卒塔婆を立てるなど、この時代には大きく仏教の影響下にあったと思われます。鎌倉時代には庶民層にも仏教が広まり、仏式の葬儀が行われる例が見られる様になりました。

大きな転機は、江戸時代にやってきます。少々前述しました「檀家制度」です。
これまでの民衆の葬式は、“葬式組”と呼ばれる村落共同体のグループが葬式を仕切り、棺や装具をつくったり炊き出しをしたりしていましたが、檀家制度以降、僧侶による葬式が一般化しました。

寛永12(1635)年頃、国民すべてを近隣の寺院に帰属させる寺請制度が施行されます。これは、国民全員に仏教徒となることを義務付けたもので、国教化政策と言っていいでしょう。
(てらうけ。寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度。必然的に民衆は、寺請をしてもらう寺院の檀家となったため、檀家制度や寺檀制度と同様に扱われて呼ばれますが、厳密には檀家制度と寺請制度は異なります。)
(この年、参勤交代制度化。寺社奉行設置。)
(慶長17(1612)年 キリスト教禁止令。)
(寛永8(1631)年 新寺建立禁止令。)
檀家制度は、寺院が檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた、寺と檀家の関係を言います。幕府としては、寺院に一定の信徒と収入を“保証”するものでした。
その目的において、邪宗門とされたキリスト教や不受不施派の発見や締め出しを狙った制度でしたが、宗門人別改帳など住民調査の一端も担いました。異教信徒に対し改宗を強制し、それに抗した一部の者は“隠れ”となる事を強いられました(キリシタンのレッテルを貼られる、または無宿人として社会権利の一切を否定されることに繋がりました)。
これら寺請の任を背負ったのが、前述しました「本末制度」における末寺です。
万治2(1659)年、寛文2(1662)年、幕法でキリシタン改の役割責任を檀那寺(旦那。布施で成り立っている寺のこと)と定めています。
後に、キリシタンと発覚した人物の親族の監視も檀那寺の役割と定められました。これら禁教政策にともなって、より檀那寺の権限は強化されていきました。
寺請制度、本末制度、新寺建立禁止令などを通して、檀那寺は檀家を強く固定化することに成功します。檀家になるとは、すなわち経済的支援を“強いられる”ということでした。寺院伽羅新築改築費用、講金・祠堂金・本山上納金など、様々な名目で民衆に経済的負担を強要しました。
貞享4 (1687)年、檀家の責務を明示し、檀那寺への参詣や年忌法要のほか、寺への付け届け(よく言えば謝礼。悪く言えば賄賂。)も義務とされていました。
(この年は「生類憐みの令」発布。)
元禄13(1700)年頃、寺院側も檀家に対してその責務を説くようになります。(常時の参詣、年忌命日法要の施行、祖師忌、釈迦の誕生日、釈迦涅槃日、盆、春秋の彼岸の寺参り(墓参り)。)
民衆にも位牌、仏壇、戒名といった制度が導入され、葬式に僧侶がつくようになりました(上記)。

これらの要件により、各寺院は布教の必要を無くし、自らの檀家の葬儀や法事を営み、定期的に収入を得るばかりの、変化のない生活に安住する様になっていったのです。

もし檀家が“責務”を拒否すれば、寺は寺請を行うことを拒否し、檀家は社会的地位を失います。遠方に移住するというような場合を除いて、別の寺院の檀家になることもできませんでした。民衆は、生まれた家(あるいは地域)の檀那寺の檀家となってその責務を履行する以外、“生存”の術がありませんでした。
こうして――
寺と檀家には圧倒的な力関係が生じました。民衆は、寺院組織下の存在となりました。
信仰・修行よりも、寺院経営に勤しむようになりました。
僧侶の乱行が始まりました。
僧階が金銭で売買されるようになりました。
新規寺院建立の禁止も、廃寺の復興といった名目で行なわれました。(末寺増加。)
“家”、“先祖崇拝”の側面が寺院の利潤追求ゆえに先鋭化しました。
そして――
本来の仏教の教えは形骸化しました。
今日に言われる「葬式仏教」に陥りました。
民族性か、古来の風習か、先祖崇拝の側面を強く持つことで、檀家制度は受け入れられました。
この頃、死後一定の段階を経ると仏様(ご先祖様 = 仏陀)になるという誤った仏教認識が生まれてしまいました(前述)。
この頃、民衆にも墓に石塔を立てる習慣ができました。(檀那寺に墓を作るということは、半ば義務化されています。)


どのような名目であれ、その立場を利用して檀家から際限なき収奪が可能となった寺院には当然 批判が起きました。また、その批判者は儒学者・神道学者・国学者など幅広く、数も多くいました。これらの批判は江戸時代初期から存在し、明治の廃仏毀釈運動まで、江戸時代通して存在し続けました。
※「寺社仏閣/神仏習合と分離」→ http://ameblo.jp/emeth-spriggan/entry-11014177434.html
批判を受け、幕府や藩は幾度と寺院の締め付けを行っています。
寛文5(1665)年の時点で“諸宗寺院法度 九ヶ条”が発布されています。
寺院から無教養の僧侶を放逐する。
檀家の負担を軽減する。
寺に女性を泊めない。
離壇の権利を檀家に認めること。
これによって、中世のような仏教勢力が一大勢力を築くというような事態は起こりませんでした。しかし、それでも自治行政を担った寺院の権益を奪いきることはできず、腐敗は続きました。
※「江戸時代9/寺子屋・女性/仏教寺院・僧」→ http://ameblo.jp/emeth-spriggan/entry-11222135088.html
廃仏毀釈運動によって多くの寺院や仏像が破壊されましたが、その背景にはこのような要因が強く絡んでいたのです。

江戸時代初期の寺院数は12,000余。
村落にあった寺院は、本堂が5坪から10坪程度の、どこも普通の民家と大差ない規模でした。それが――
江戸時代末期の日本全国の寺院数は、300,000。
廃仏毀釈運動後、100,000。
菩提寺という制度で、仏教寺院は生き残れました(一因)。
寺墓を持つために、そのまま寺と檀家が繋がっているだけです。家人の葬儀や先祖の年忌法要といった儀礼でしか、寺と檀家は接点を持たなくなりました。
葬式仏教の起源――

平成19年の寺院数は76,000。同年のコンビニ数が42,000幾許。

日本仏教13宗、うち上位。
日蓮宗――1,762万
浄土真宗―1,310万
真言宗――1,285万
浄土宗―― 650万
天台宗―― 347万
曹洞宗―― 172万
臨済宗―― 104万
時宗―――― 6万

仏教も神道も否定した新宗教が次々と興りました。神道由縁、キリスト教由縁のところもありますが。
女性教祖も登場しました。
(新興宗教の隆盛。某が知覚している所だけですがm(_ _)m )
幸福の科学 1,100万
創価学会―― 827万
立正侠成会― 408万
霊友会――― 153万
天理教――― 120万
PL教団――――98万(パーフェクトリバティー)
阿含宗――――34万
ものみの塔――22万(――聖書冊子教会)


明治以降、政府の「肉食妻帯勝手たるべし」という布告を口実に、それまでも現実的に破戒が常態だったものが、より公然と妻帯が行われる様になりました。
そのため、多くの寺院において、戒律を順守する僧侶ではなく、妻帯しつつ 僧職で生計を立てる在家者 である者の子女が 寺を継ぐという、世襲制度が一般化したのです。
これも、葬式仏教化へ拍車をかけた一因です。

現在、この様な葬儀や法事に依存した日本仏教の状況を批判する意味で、「葬式仏教」という言葉が使われる様になりましたが。仏教界内部からも、この状況を反省し改めるべきだとする活動が様々に行われるようになりました。
宗派問わず、イジメ、不登校、自殺防止などの諸問題に取り組み、宗教家の立場で人々の相談にのり、人々の心の問題に取り組もうとする動きが、伝統的な仏教界にみられるようになったのです。
(通称、俗称が“駆け込み寺”な組織・個人ではなく、本当の寺院が、恋愛トラブル、離婚相談などを聞いてくれます。)

葬式仏教的な現状に飽き足らない僧侶の中には、既成の宗派の枠やしきたりを超え、中国、インドその他アジア諸国で活動する者、海外の仏教に目を向けて活動する者といるそうです。
これと逆に、過疎化等の進行でその地域だけでは葬儀が行えない事や、都市化とライフスタイルの変化、葬儀の在り方の多様化等により、“葬式仏教すら成り立たない”寺院も存在しています。



◎隠亡――
おんぼう。戦後まで、火葬場において死者を荼毘(だび)に付し、遺骨にする仕事に従事する作業員の意味に用いられていました。
隠坊や御坊(ごぼう)とも記され、地域によりオンボとも呼ばれます。
昭和時代、この職業は現在で言う被差別部落出身者が大半だったため、軽蔑的に用いられることが多く、現在は差別用語とされ用いられません。
通常、斎場職員もしくは“火夫(かふ)”と呼びます。
室町頃から江戸期まで、寺院や神社において、周辺部の清掃、墓地の管理、とくに持ち込まれる死体の処理などに従事する下男とされました。
賤民階級のひとつです。


◎卒塔婆――
そとば。サンスクリット語のストゥーパの音訳で、塔婆(とうば)とも略されます。
もとは仏舎利(ぶっしゃり。釈迦の遺骨)を安置するための建築物を意味していました。日本では、仏塔と言っています。
現在の日本では、追善供養のために文字を書き、墓の背後に立てる塔の形をした木片のことを卒塔婆と呼んでいます。
これは、殊に板塔婆(いたとうば)とも呼ばれ、仏塔の一種である五輪塔を簡略化したものです。上部の輪郭に左右4対の切り込みが刻まれており、切り込みで区切られた5つの部分が、五輪塔と同じく五大を表しています。
かなりデフォルメされていますが、上から――
空(宝珠型)、
風(逆半円形)、
火(三角形)、
水(円形)、
地(方形。刻みのない下部)
――です。
卒塔婆を立てることを卒塔婆供養といい、納骨の時が最初になります。のち、法要ごとに卒塔婆供養が行われ、新しい卒塔婆と取り替えます。
※浄土真宗では(ry 作っていません。
卒塔婆に書かれる文字は、宗派により細部に違いはありますが、戒名、帰依する仏名と種子、その法要を司る十三仏の種子、五大の梵字etc.


※(葬儀において)浄土真宗では、迷信を忌む宗風から、日や方角の吉凶を選ぶ、守り刀、逆さ屏風、左前の死装束、北枕、六文銭の副葬、振り塩などの習俗は、原則としておこなわれていません。


※位牌――

死者霊の依代とみなされます。仏壇に安置され、盆・彼岸・命日など、日常の供養の対象となります。

死者の法名(戒名)、俗名、死亡年月日、年齢が記される仏具です。位牌は儒教の神主(しんしゅ)や神道の霊代(みたましろ)に相当します。日本には禅僧が中国より伝えたものとされており、それ以前は民族的なイハイギ(斎木?)や南国や大陸にみられる香炉(壺)などであったと考えられています。

葬式の際に白木に墨書したふたつの仮位牌を作り、ひとつは墓地、ひとつは家の仏壇に安置します。忌明けの四十九日以降一回忌ないし三回忌までに漆塗や金箔塗の本位牌に改めます。




キャパいっぱいじゃなイカ?<:3ミ
ギリギリchop┐(;>_<;)┌