●斑鳩(いかるが)
★斑鳩(町)(いかるが) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
奈良県北西部、生駒(いこま)郡にある町。1947年(昭和22)竜田(たつた)町、法隆寺村、富郷(とみさと)村が合併して成立。町名は、聖徳太子がいまの法隆寺夢殿あたりに造営した斑鳩宮(鵤宮)跡に由来する。町域は奈良盆地北西部から矢田丘陵南斜面に及び、町の南部にJR関西本線(大和路(やまとじ)線)、国道25号、168号が通じる。また西名阪自動車道法隆寺インター(河合(かわい)町)にも近い。水田耕作とナシ、ブドウ、カキ、イチゴなど果樹園芸の近郊農業が盛んであるが、誘致による工場が国道沿いに進出し、地場産業のふすま地、障子紙のほか、ベアリング、オイルシールなどの生産が行われている。竜田は古くから商業の中心地で、鉄道の敷設に反対したため一時衰えたが、自動車交通の発達によって回復した。
町のほぼ中央部にある法隆寺は、飛鳥(あすか)時代の建築彫刻の粋を集めた世界最古の木造建築物として名高く、周辺のもの静かな雰囲気と相まって古代文化の余香をいまに伝える。そのほか中宮寺、法起(ほっき)寺、法輪寺など聖徳太子ゆかりの古寺や三井(みい)(古井の遺構)、三井瓦窯(がよう)跡、藤ノ木古墳をはじめとする古墳群などの史跡が多い。1993年(平成5)には法隆寺周辺地区の仏教建築群が世界文化遺産に登録された。また、『小倉(おぐら)百人一首』で知られる紅葉(もみじ)の名所三室(みむろ)山、竜田川があり、竜田大橋付近の楓葉(ふうよう)は秋に多くの人々を楽しませる。県立竜田公園もある。人口2万7816(2005)。 [ 執筆者:菊地一郎 ]
★斑鳩宮(いかるがのみや) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
聖徳太子が601年(推古天皇9)斑鳩(奈良県生駒(いこま)郡斑鳩町)に営んだ宮室。643年(皇極天皇2)蘇我入鹿(そがのいるか)の兵によって焼き払われ、いったん逃れた太子の長子山背大兄王(やましろのおおえのおう)も一族とともに法隆寺で自殺した。『法隆寺東院縁起』によれば、739年(天平11)行信僧都(ぎょうしんそうず)の奏上によって宮跡に東院伽藍(がらん)がつくられた。1939年(昭和14)東院の修理工事に際してその地下から発見された一群の掘立て柱建物は、焼け瓦(がわら)、焼け壁土、灰などを伴っていて、斑鳩宮の一部であると推定されている。 [ 執筆者:中尾芳治 ]
★竜田(たつた) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
奈良県北西部、生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町の一地区。旧竜田町。矢田丘陵南麓(なんろく)を占め、竜田川沿いは古くからもみじの名所として知られ、県立竜田公園がある。龍田神社は、法隆寺建立の際に鎮守として龍田大社(三郷(さんごう)町)から勧請(かんじょう)したといわれる。江戸時代初期には片桐(かたぎり)氏竜田藩の陣屋町であり、また大坂街道に沿う街村であった。 [ 執筆者:菊地一郎 ]
★中宮寺(ちゅうぐうじ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町法隆寺にある寺。法隆寺を中心とする奈良仏教系の聖徳(しょうとく)宗に属する門跡尼寺(もんぜきにじ)。山号を法興山という。別称は中宮尼寺、中宮寺御所(ごしょ)、斑鳩御所といい、また法隆寺を斑鳩寺というのに対して斑鳩尼寺という。全国尼寺の総本山。本尊は如意輪観音(かんのん)。寺の創建に関しては諸説あるが、寺伝では、596年(推古天皇4)、聖徳太子は母の用明(ようめい)天皇皇后(穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女)のために中宮を建て、母没後、その菩提(ぼだい)を弔うために御所を寺刹(じさつ)にしたといい、母を開祖として中宮寺(なかみやでら)と号した。古くから聖徳太子ゆかりの尼寺として栄えたが、鎌倉時代には衰微。江戸時代に復興し、その門跡も代々伏見宮家から迎えられた。現存の建造物はそのほとんどが江戸時代以後のもの。本尊の木造菩薩半跏(ぼさつはんか)像(寺では如意輪観音像というが、一般には弥勒(みろく)菩薩とみられている)、天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)(以上2点は国宝)、紙製文殊(もんじゅ)菩薩立像、紙本墨書『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』(以上2点は国重要文化財)などの貴重な文化財が所蔵されている。菩薩半跏像は思惟(しい)半跏の優美な像で、京都広隆寺の弥勒菩薩半跏像とともに飛鳥(あすか)後期の名品として有名である。また天寿国繍帳は、絹布地に色糸で極楽浄土を刺繍(ししゅう)したもので、聖徳太子追善のために製作されたという。わが国最古の刺繍物であるが、現存するのは数個の断片である。 [ 執筆者:里道徳雄 ]
★斑鳩寺(いかるがでら) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
兵庫県揖保(いぼ)郡太子(たいし)町にある天台宗の寺。斑鳩の太子ともよばれる。もとは大和(やまと)国(奈良県)法隆寺(ほうりゅうじ)の別院であった。推古(すいこ)天皇が聖徳太子の『勝鬘経(しょうまんぎょう)』『法華経(ほけきょう)』講説に感動して土地を与え、太子は、その地を鵤荘(いかるがのしょう)と名づけて一伽藍(がらん)を建立したのが当寺の創建である。1541年(天文10)4月兵火にかかって堂塔すべて焼失したが、弘治(こうじ)年間(1555~58)昌仙(しょうせん)法師らにより再建、その後は天台宗に属した。寺伝によれば、往時、山内には36の子院(しいん)(末寺)があったという。室町時代の建築である三重塔のほか、寺宝の絹本着色『聖徳太子勝鬘経講讃(こうさん)図』、紺紙金泥『釈迦(しゃか)三尊図』『十六羅漢像図』5幅、十二神将木像8躯(く)、日光・月光菩薩(ぼさつ)像などが国の重要文化財に指定されている。 [ 執筆者:中山清田 ]
★藤ノ木古墳(ふじのきこふん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町藤ノ木にある6世紀後半の円墳。古墳の東300メートル余には法隆寺があり、江戸時代にはミササギ山とよばれ、崇峻(すしゅん)天皇陵と伝承されていた。1985年(昭和60)に斑鳩町と奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所によって発掘調査が行われた。墳丘は径40メートルで、南南東に開口する全長14.5メートルの横穴式石室がある。石室には家形石棺があり、60個体余の土師(はじ)器・須恵(すえ)器と馬具などが出土した。
馬具はすべて金銅(こんどう)装で3セットある。1セットの鞍金具(くらかなぐ)にはパルメット・亀甲(きっこう)・鳥・獣・怪魚・象・兎(うさぎ)と鬼神などの文様があり、後輪中央の把手(とって)の両端には金細工をはめ込んだガラス玉がついている。文様の背景には、中国・朝鮮の思想が考えられる。国際色豊かな馬具がなぜ斑鳩の地にもたらされたのかという点は、聖徳太子が飛鳥(あすか)ではなく斑鳩に宮を造営した背景と関連するかもしれない。 [ 執筆者:石野博信 ]
★法隆寺(ほうりゅうじ) [ 日本大百科全書(小学館) ] . http://p.tl/aPJX
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳(しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。 [ 執筆者:里道徳雄 ]
★法輪寺(ほうりんじ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町三井(みい)にある寺。明治時代は真言(しんごん)宗東寺末であったが、現在は聖徳(しょうとく)宗に属する。妙見山(みょうけんざん)と号し、法琳寺、法林寺とも書き、三井寺(みいでら)、御井寺とも称する。本尊は薬師如来(やくしにょらい)。622年(推古天皇30)聖徳太子の病気平癒祈願のため山背大兄王(やましろのおおえのおう)などが建立を発願し、天武(てんむ)朝にかけて徐々に伽藍(がらん)を整えたと伝えるが、他説では670年(天智天皇9)法隆寺の焼亡後に造立されたともいう。法隆寺式伽藍配置で、規模は法隆寺の3分の2にあたるといわれる。1645年(正保2)台風により諸堂宇が倒壊、江戸中期に復興され、現在、金堂、講堂(収蔵庫を兼ねる)、三重塔、妙見堂、鐘楼などが建つ。三重塔は、法隆寺五重塔、法起(ほっき)寺三重塔とともに斑鳩の3名塔の一つに数えられたが、1944年(昭和19)雷火で焼失、75年(昭和50)に再興された。寺宝には、飛鳥(あすか)時代の木造薬師如来坐像(ざぞう)(もと金堂本尊)、木造虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)立像(もと金堂安置)、平安前期の木造十一面観音(かんのん)立像(もと講堂本尊)、平安後期の木造聖(しょう)観音立像、多宝塔文磬(もんけい)などが国重要文化財に指定されている。 [ 執筆者:里道徳雄 ]
★法起寺(ほっきじ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町岡本にある寺。岡本山と号し、法相(ほっそう)宗系の聖徳(しょうとく)宗に属する。本尊は十一面観音(かんのん)。岡本寺、岡本尼寺、池後(いけじり)寺ともいう。岡本宮(おかもとのみや)の旧跡。622年(推古天皇30)2月聖徳太子薨去(こうきょ)に際し、聖徳太子が『法華経(ほけきょう)』を講じた岡本宮を山背大兄王(やましろのおおえのおう)が寺に改めて、大和(やまと)国(奈良県)や近江(おうみ)国(滋賀県)の田地を施入したことに始まる。638年(舒明天皇10)福亮は金堂と本尊弥勒(みろく)仏像を造立し、684年(天武天皇13)恵施は三重塔を建造し、706年(慶雲3)3月には露盤銘を刻んで、法隆寺型結構が整った。ただ本堂と塔の配置は法隆寺と逆である。白鳳(はくほう)時代のこの三重塔は法隆寺五重塔よりもさらに洗練された技法をもつ優雅な建築で、国宝に指定されている。寺は鎌倉・室町時代に衰微したが、1678年(延宝6)真政律師が学舎を修復するなど、近世に至って徐々に整備された。寺宝に虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)と称する金銅菩薩像(飛鳥(あすか)時代、国重要文化財、奈良国立博物館に委託)がある。 [ 執筆者:里道徳雄 ]
★鵤荘(いかるがのしょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
播磨(はりま)国の法隆寺領荘園(しょうえん)。現兵庫県揖保(いぼ)郡太子(たいし)町を中心とする地域。747年(天平19)の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(がらんえんぎならびにるきしざいちょう)」では、揖保郡に水田219町余のほか、薗地(えんち)、山林、池、庄倉(しょうそう)と封戸(ふこ)50戸があり、これがのちに鵤荘に発展したと思われる。嘉暦(かりゃく)4年(1329)卯月(うづき)の荘絵図があり、全容をうかがうことができる。法隆寺の「根本荘園」とよばれて15世紀末にも田地360町余を保持していた。しかし「惣荘名主(そうじょうみょうしゅ)、百姓」らの結合による寺家への対捍(たいかん)、大名領国形成過程の紛争のなかで、しだいに実を失い、16世紀前半(天文(てんぶん)ごろ)には年貢17貫500文が納入されるのみであった。当荘関係史料のうち『鵤荘引付(ひきつけ)』は中世村落の実情を示す貴重な史料である。 [ 執筆者:阿部 猛 ]
★太子(町)(たいし) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
兵庫県南西部、揖保(いぼ)郡の町。1951年(昭和26)斑鳩(いかるが)町と石海(いわみ)、太田の2村が合併して成立。55年竜田(たつた)村を編入。姫路平野の西部にあって町域はほぼ平坦(へいたん)である。国道2号が東西に走り、29号、179号を分岐する。またJR山陽本線と東海道・山陽新幹線が通過するが駅はない。鵤荘(いかるがのしょう)は聖徳太子の施入(せにゅう)で法隆寺領となり、中世まで続いた。平安時代に斑鳩寺(地元では「はんきゅうじ」とよぶ)が建立されるとその門前町として栄え、江戸時代には山陽道の宿場町となった。現在は播磨(はりま)臨海工業地域の後背地として急速な都市化が進み、農業は施設園芸や畜産を取り入れ、工業は弱電メーカーを中心に農機具、製紙などの工場が進出している。斑鳩寺には室町時代の三重塔や、平安時代末期の釈迦(しゃか)三尊十六羅漢像5幅など国指定重要文化財が多く、2月と8月の会式(えしき)には参詣(さんけい)客でにぎわう。鵤荘の境界を示した榜示(ぼうじ)石が4個残っている。1993年(平成5)複合文化施設「ふるさと文化村」(あすかホール、歴史資料館など)が開場した。人口3万2555(2005)。 [ 執筆者:大槻 守 ]