天神(雷神) ・稲妻 | 獨と玖人の舌先三寸

天神(雷神) ・稲妻

クエスチョンは年末にいただいておりました。現在受験期が過ぎていくところ…(; ̄Д ̄) ………すみません……(つε`)


●天神信仰(てんじんしんこう)は、天神(雷神)に対する信仰のことで、特に菅原道真公を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことを言います。
本来、天神とは国津神(くにつかみ)に対する天津神(あまつかみ)のことで、特定の神の名ではありませんでした。ですが、道真公が死後、火雷天神と呼ばれ雷神信仰と結びついたことなどに由来し、道真公の神霊に対する信仰もまた天神信仰と称するようになったのです。
※天津神は高天原にいる、または高天原から天降った神の総称です。それに対して国津神は地に現れた神々の総称です。漢字二字で記すと、天神、地祇(ちぎ)となります。“つ”は現代語の“の”のことで、天の神、国の神という意味です。

藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された道真公は失意のうちに没しました(延喜3(903)年2月25日)。彼の死後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死します。さらには清涼殿が落雷を受けて多くの死傷者を出しました(930年 清涼殿落雷事件)。これらが道真公の祟りだと恐れた朝廷は、923年、道真の罪を赦すと共に贈位を行いました。
清涼殿落雷の事件から、道真の怨霊は雷神と結びつけられました。
延喜19(919)年、道真公が亡くなった太宰府にも墓所の地に安楽寺天満宮、のちの太宰府天満宮を建立しました。
天暦元(947)年、元より京 北野の地には火雷天神という地主神が祀られていて、朝廷はここに北野天満宮を建立し道真公の祟りを鎮めようとしました。
949年、難波京西北の鎮守 大将軍社前に、一夜にして七本の松が生えたという話に由り、勅命で大阪天満宮(天満天神)が建立されました。
永延元(987)年、“北野天満宮大神”の神号が下されます。また、天満大自在天神(てんま――)、日本太政威徳天(にほんだじょういとくてん)などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊とされました。

平安時代末期から鎌倉時代頃には怨霊として恐れられることは少なくなっていました。この時代に書かれた“天神縁起”によると、この時代には天神様は慈悲の神、正直の神として信仰されるようになっていたようです。
江戸時代には、道真公が生前優れた学者・歌人であったことから、天神は学問の神として信仰されるようになりました。
元来の火雷天神は天から降りてきた雷の神とされており、雷は雨とともに起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから農耕の神なのです。全国各地に火雷天神と同様の伝承とともに天神が祀られていましたが、火雷天神が道真公と同一視されたことから、各地に祀られていた天神もまた道真公であるとされていきました。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われました。
天神(道真公)を祀る神社は、天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社などという名称で、九州や西日本を中心に約1万社存在し、分社の数は第3位になります。
太宰府天満宮と北野天満宮はそれぞれ独立して創建されたもので、どちらかが勧請を受けたものではありません。そのため、北野天満宮と太宰府天満宮では総本社、総本宮という呼称は用いず、“天神信仰発祥の地”と言っています。

※雷記念日6月26日――
延長8(930)年のこの日、清涼殿落雷事件がありました。これも一因になり、道真公は雷の神“天神”と同一視されるようになりました。

・雷 = 神鳴(かみなり)。
神鳴(かみなる) = 雷神。
雲の上に居て、虎の皮の褌(ふんどし)を締め太鼓を打ち、臍を取ると言う。雷様。
神。鳴神(なるかみ)。
季語は夏。
八百万の神を信じた古代日本人は、雷に“神の怒り”の峻厳な霊威を感じ取っていたようです。

※天満とは“無実が天を満たす”という意味か。
※大自在天とは、色究竟天(しきくきょうてん。仏教の世界観、三界のうち色界及び天上界における最高の天のこと)に在す天神で、元はヒンドゥー教のシヴァ神とされます。シヴァはヒンドゥー教において“破壊と創造の神”であり、この二面性は雨季と乾季を繰り返す熱帯モンスーン気候を神格化したものと捉えられており、雨季の大豪雨や雷雨は時として洪水を引き起こし人々の生活を破壊しますが、一方では熱帯の旱魃を潤し穀類や牧草を繁殖させて人々に恩恵を齎します。
天神の“陰陽道的祟り”と“農耕の利生”が一致しています。
また、シヴァは聖牛(白の牡牛ナンディン)に乗って移動する神で、道真公の神使である神牛と同じ関係です。

※雷を“稲妻(いなづま)”と呼ぶのは、五穀豊穣をもたらすものとして捉えたからです。