川上操六 02 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 劍を揮ひ、彈雨を潛りて鬪ふの勇將の名は世に傳はるが、帷幄の裡に籌を運らすの謀將の功を說く者は尠い。而も全軍の成敗安危の岐るゝ處は、彼に非ずして是にあるのである。謀將の職責重大にして、世間の聲譽の之れに伴はぬは、一に其組織性質の上から見て免がれ難き結果である。
 謀將の籌を運らす、固より之を知らしめざるが、最も必要條項である。已に知らしめざる上には、世間の之を知らぬのは當然の結果であつて、其知らさぬ處に却つて深遠な妙味が潛む、而してそれが兵馬運用の原動機關として約束された性質の重要部面でもある。操六は、斯く如き謀將の傑出者である。實に日淸戰役の軍務大首腦者であつて、其大捷利は彼の計畫立案によりて獲得したものであつた。操六の名聞えて操六の功を知る者尠きは、彼が拔群の謀將であるが爲に外ならぬ。
 操六、幼名を宗之丞と曰ひ、鹿兒島城の北郊吉野村の東北中ノ丁の少年であつた。八九歲の頃、衆童と共に吉野山に遊び、誤つて崖穴に墜落して、吾手に携へた鎌で足を傷け、昏倒絕息した。漸く家人馳せつけて扶けた爲に一命を取り止める事を得た。若し此時、機を失はんか、明治の絕大な智將も啻の頑童の夭死となり終つたのである、天の人を妙用する誠に測り知り難きものがある。
 操六、十一歲にして學を修め、後、中ノ別府の鄕黌に入學した。穎才囊を貫く錐の如きものあり、文藻詞華には秀でぬけれど、學問見識は頗る異彩があつた。平常謹厚の風があるも、一たび議論に移ると、己れ服するか他人服するかの點に至る迄、說き來り說き去りて休まぬ、蓋し獨立の風格と、硏究の資性とに卓越する者があつたのである。
 學業進んで十六歲にして藩校造士館に入る事となった。造士館は鹿兒島の中央に在つて、吉野村からは二里餘の行程である、坂を越え、溪を渡り、塞暑風雨を凌いで日々通學した。然るに吉野村は甘藷の產出地であるから、鹿兒島城中の士は、此地方の人物を侮つて「吉野のカライモ」と號して嘲つた。操六亦「吉野のカライモ」の一人である。熱血漢桐野利秋も「古野のカライモ」であつた。
 操六、此侮蔑に對して心竊かに期する處があつた。我れ必らずカライモの光輝を發揚せしめんと。乃ち學業に武術に全心身を傾倒して、營々精勵したから、彼の進步はメキ〳〵と目立つた。十八歲にして簡拔せられて、造士館の師員に列し、祿若干を賜はる、果然カライモは光彩を放つて、曩に侮蔑した城中の士は、却つて「吉野のカライモ」から敎へを享ける事となつたのである。此間の操六の勤勉勞苦又想像すべきものがある。



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