川路利良 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

川路利良、通稱正之進、號を龍泉と稱す、天保五年五月十一日、鹿兒島吉野村に生る。元治元年の事變には、禁闕を護つて長州兵と鬪ひ、其功を西鄕隆盛に認められた。戊辰の役には竹田街道に出でゝ戰つた。東叡山の戰鬪にも從ひ、磐城淺川の役に於て敵彈に中つて傷つく。若松攻城にも參加した。明治二年、薩の兵器奉行を命ぜらる。同四年、東京府大屬となり、累進して、羅卒總長より大警視となつた。明治五年。司法警察視察の官命を蒙つて歐洲を巡視す。同十年、陸軍少將に任ぜられ、別働第三旅團を率ゐて、九州に轉戰した。翌十一年、海外警察視察として歐米へ差遣されたが、彼土に於て疾を獲、同十二年、巴里を出發して歸朝の途次、十月十三日、船中に於て歿す。四十六歲。
 利良、幼少の時より常人に異るものがあり、剛毅謹直にして至つて寡言であつた。滅多に物を言はぬ代りに、一度口にすれば必らず其主張を貫徹するといふ性癖を有つてゐた。殊に其健脚は驚くばかりで、幕末の頃、每日三里を距る處から鹿兒島へ通勤して、決して倦む處がなかつたといふ。
 少年時代から常人に異つたものがある例として、次の如き話柄が傳つてゐる。曾つて大隅日當溫泉に赴くとて、母に乞うて、飯一升をたいてくれといふ。其所以を聞くと、面倒であるから晝飯の分までも腹に納めて行くつもりであるというて、一升飯を平げて、溫泉に向つて出發した。
 土方楠左衞門(久元)三條實美等の筑紫に潛居するに從うてゐたが、命によりて京都に出で其歸りに大阪を出帆する船に乘つて航海した。其船中に於て、偶、甲板上に大根卸しで五升德利を傾けてゐる武士があるを見た。其風采や態度が尋常者流に異つてゐるから、頻りに注視してゐたけれど、言葉を交はす便宜がない。試に大根卸しの分配について賴むと、其武士の快く分つてくれた。之れを機會に其姓名を問うと、薩藩川路正之進(利良)といふ。土方大に喜んで、共に國事を談じ、互に胸襟を披いて語り合つた。
 甲子兵燹の際、中立賣御門を護る薩兵は、川上助八郞の隊であつたが、長州兵之れを攻擊し來つて、殊に篠原某なる劍道の達人が斬り靡かす刄風には吾軍は辟易して敗色を見せた。利良之れを見て救援に馳せつけ、篠原を殪して長州兵を走らした。後に利良の刀を視ると、刀齒こぼれて鋸の如くなつてゐる。ある人之れを見て、その刀でよく敵が斫れたと賞稱すると。利良遜つて、否鐙糸を切るに止るといふ。更に何故突きを試みなかつたと聞くと。上杉謙信の如き古英雄でも、あの時突く事を忘れてゐた。亂戰の最中、左樣の考へが出るものでない、唯力任せに敵を殪したに外ならぬと吿げた。
 元治の戰鬪及び戊辰の諸戰に於て、利良の强勇を認められ、西鄕隆盛の信任を得て、遂に大警視となつたも其推薦による。
 明治五年、利良洋行して泰西の文物を視て歸り、新歸朝の新智識を以て、時には參議をも凌駕せんとする勢ひがあつた。一日、諸參議會して雜談の末に利良の話が出た。中には其剛勇を賞贊する者もあつた。大久保利通曰ふ、彼れは朝飯前に太平洋を橫斷したと。側の人々之れを訝しみて、利良は陸上には强いが、船の上では至つて弱いと聞く、それに太平洋を朝飯前とは如何なる譯かと問うた。大久保乃ち笑つて、彼れの船に弱い事は、其言葉の如くである。彼れは桑港で朝餐を食はぬ前に船に乘り、それから橫濱へ着く迄といふものは死人同樣の有樣で、一度も食事をしなかつた。それ故に彼れは朝飯前に太平洋を橫斷したのであると。諸參議膝を叩いて好謔を喜ぶ。
 利良、嚴格を以て聞えてゐたが、一面部下を愛する至情は人を動かすものがあつた。警官の職務のために傷つく者があると、必らず自ら之れを見舞うて、毛布や葡萄酒を携へて、如何なる陋居も厭はず訪問して慰めた。而も此事は決して他人に托した事がなく、必らす自身赴いたから、部下の者皆其至情に感動せぬはなかつた。
 十年戰役に薩軍の斫込隊の猛襲には官軍常に惱む處であつた。熊本城との連絡に急を要する者があるから、官軍別働旅團數箇を新に編成し、中にも警部巡査を以て編成したものを利良の統宰の下に置いた。此等の勇士は皆戊辰の戰に出た輩が多いから、警官の拔刀隊の奮擊は頗る目覺しいものがあつた。此戰鬪中、利良の陣營を訪問した某の話に次の如きものがある。
 其人、利良の本營を訪ふと、利良の枕元に至る迄、哨兵一人の姿も見えぬ。利良は疊の上に靴を枕にして橫臥してゐた。而も傍に毛布が數枚積み重ねてあつたから、何故に毛布を被つて臥せぬかと聞くと。數多の部下が原野に臥してゐるのに、我れ苟にも毛布が著て寢てゐられるかと吿げた。聞く人、其至情にうたれて思はず淚をこぼした。此時、却つて幕僚の方が毛布を被つて寢てゐるものが多く。利良は之れを見て、これだから困ると呟くのみで、深く咎めもしなつた。倂し此呟きを聞いた幕僚は自ら赤面するを禁ずる能はぬ。
 西南役終つて、東京へ凱旋の後、利良の口から花々しい戰鬪談でも聞かれるかと思ふと。利良のいふ所は、永らくの戰爭中、都下の安全を保ち得たは、一に安藤中警視始め留守する人達の功績である、深く感謝する處であるといふのみで。他人を厚く賞贊するとも、自家の效能については少しも述べなかつた。


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