6年前 クラシック あの頃の悩み?。。
文武両道について(2)
文武両道の教育を受けてきたことに対する自分なりの総括、ですが、
まだ総括はできない、という前提で。。

自分が仮に良質な「個性をのばす」教育を受けていたとしたら、人生がものすごく変わったのではないか、という思いが強く残っているわけです。ここには「田舎」への怨念があります。田舎は基本的に画一的な教育しか行わないためです。

ところが、もし教育により自分の人生が変わっていたのだとすると、自分には特異な才能があったのに、それを伸ばしてくれなかった教育者が悪いのだ、と言っているのと同じですが、果たして自分にはそんな才能が内包されていたのか? 思い上がりではないのか? と大人になってから思うようになってきています。

自尊心から自分には特異な才能が「あった」と思いたい、という思いは今でもありますが、
何となく「なかった」に軍配があがりそうな予感がしています。

人より秀でた才能があったか、なかったか、という観点での総括は、これで完了です。「なかった」ということです。

ただし、人より秀でているかどうかという相対評価は外して、ある分野で「それなり」に活躍できる才能、あるいは、この日本では一生日の目はみないかもしれないけれどもちょっと人と違う才能、などがあるかないか、という点ではまだ決まったわけではありません。これは未だあきらめていません。

問題は、自分は具体的に「何が」才能で、「どうすれば」ブラッシュアップでき、どのような結末が自分の願いなのか(名声を得ること? お金?)、すら、自分で把握していないとういことです。

そして、子供の頃誰か自分にそれを教えてほしかった、と今でも嘆いています。「教えてくれないから、わからない」と、冴えない愚痴をこぼしたくなります。
原因を「自分の育った田舎には、自分の才能を発見してくれる良質な教育者がいなかったから」というあたりにすげ替えたいなあ、と。

まあそのような傲慢なことは普段口には出しませんが、、
しかし、歳をとってしまった現在は、傲慢な思いはそれほど強くありません。
教育がなっていなくとも、両親は、わかっていたはずなのです。そして、自分に何度も「お前はこれが得意だから、こうしたほうがよい」と、伝えているはずなのです。
それをすぽっと忘れている自分が問題なんですよね。

自己弁護すると、反抗期のころはそのようなことをいわれても、聞きやしません。ことごとく親の望みとは違う方向へ進みたがる時期です。
自分は、この反抗期がおそらく異常に長かったので、その時期の親のサジェスチョンをすべて捨ててしまったのだと思います。そう考えると自業自得ですが、それによる「失われた十年」(日本経済と同じですね)を取り戻さなければならないのです。

自分は教育者ではありませんが、自分で自分を再教育しなければなりません。このように書き出して自分の思いを整理したりしながら、自分の「それなりの」才能を発掘してブラッシュアップさせていく必要があります。

少しずつ話がずれてしまいましたが、、
「文武両道」という概念はひとつの記号です。自分は、その教育方針によって「勉強もそれなり、スポーツもそれなり、すべてにそれなり」という人間に育った自負はあります。つまり、ゼネラリストとしては一流です。
しかしそれが誇るべきことなのかどうか。。というあたりですね。

もっともサラリーマンに向いているような気もするのですが、なぜか、決してサラリーマンにはなるまいと思っている。。

自分が何を総括したがっているのか、というと、「ゼネラリスト」として進んでよいのか、というあたりでしょうか。