川上操六 15 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 成城學枚の生徒卒業式に臨んだ事がある。操六、曾つて此學校の校長たるに因るのである。ある時、式まさに畢らんとする頃に、操六徐かに演壇に進む。生徒等は好演說を聽かれ得る事かと喜び待ち設けてゐると。操六、先づ、諸君と一聲かけ、次に默して過ごす事多時。漸くにして曰く、請ふ勉强せよ。斯一語を吿げたる後、又、悠然として其儘壇を去つた。
 操六、容貌俊邁にして、身長六尺に垂んとして、長顏白暫、英氣自ら眉宇に溢る。傳へて曰ふ、宗之丞の昔、十一歲の頃、藩主齊彬、微行して、吉野村の鄕黌に臨み、其優等生の業を試みた。宗之丞、選に入りて、孟子の一章を講じたが、辯說明達にして頗る嘆賞をうけた。後に造士館に入學したは、此時の才能を認められた爲であつたともいふ。
 又、傅へて曰ふ。操六、或る時、京都に遊ぶの折、吾居室に揭ぐるの掛軸を索めた。其軸は、圓山應擧の筆になる鷄圖で、寫生畫家の緻密なる丹靑に成る名畫で、好品を得たと喜んでゐた。其の後に至り、此軸を周旋したものが、偶東京に來て、操六の居室を訪ふと、床上に應擧の鷄圖が見當らぬ。其所以を問ふと、答へて曰ふ、あれは某國の參謀大尉に贈つたと。
 其外國大尉は吾邦へ漫遊に來たのであるが、操六、一日、吾家の客として招くと、頻りに床間の應擧の鷄に眼を注いで、當に垂涎三尺の樣子が見える。操六は、其歸るを送り出す時に、馬車中へ鷄圖を投げ入れて、無頓著に好畫を與へて了うたのであつた。倂し之れがために、其大尉は大に好意を操六に寄せ來つて、操六はそれからして種々好都合の報吿を受取る事が出來たといふ。此の如き操六の、他人が窺ひ知らぬ苦勞の數々は、數へども數へつくせぬ濱の眞砂の數々あるのである。
 二十七八年戰役の際、獨逸伯林日報の從軍記者の通信中に、次の如きものがあつた。
 元來日本陸軍の總督は有栖川宮親王であり、川上中將は其次席であるけれど、實際日本陸軍編制の生命及び神隨である。此中將こそ、今回の出征軍を準備し、之れが計畫を樹て、且開戰以來萬般の事務を指導した人物である。其爲人、軀幹高く、長き薄き口髭を有し、其容貌は、日本人よりも寧ろ歐洲人に近く、聰明の相を具へ、野津大將と均しく大に機智に富み又好く笑ふ云々。
 操六の人物の一面をよく語る文章である。



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