近藤勇・流山前後12 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

和平会談の行方
慶応四年三月七日(グレゴリオ暦1868年3月30日)


 この日、いよいよ駿府城で大総督の熾仁親王様と輪王寺宮様とが御対面となりました。大総督府の側は公家参謀の正親町公董と西四辻公業が同席で、輪王寺宮様の側は竜王院尭忍、覚王院義観、自証院亮栄、戒善院慈常という身分の高い僧侶を従えていました。
 この席で徳川慶喜の謝罪状と輪王寺宮様の嘆願書が出され、ひとまず受理されたあと輪王寺宮様は下城なさり、義観と亮栄が残って「一応の御沙汰を待つ」ことになりました。やがて武家参謀の西郷隆盛と林通顕が出て来て、隆盛が「大総督御熟考の儀、後日回答及ばる旨」を申し渡します。

『復古記』第二冊p805
 ここまでのやりとりで、出身身分が低い武家参謀を輪王寺宮様と同席させなかったことからしても、大総督府は鄭重な扱いぶりを示したといえます。
 この前日に甲州勝沼の戦いがあったのですが、まだ大総督府には報告がなかったのでしょう、和平交渉は翌日も続きます。もちろん当時は携帯電話などありません。使者を送るほかには連絡手段がなかったのです。

 翌八日は、トップ会談後の事務レベル交渉です。『西四辻公業家記』によると、亮栄と慈常が登城して、隆盛と通顕とが交渉の席に着きました。その席で亮栄は「慶喜謝罪の事、なお今日先鋒総督御進軍にあい成り候儀」について「如何の御模様に候哉」と切り出します。和平交渉が開始されたのに進軍が猶予されないことを、やんわりと指摘しています。これは理に適った申し分ですし、いきなり討伐を中止すべきだと主張したわけではないので、むしろ控えめな姿勢だといえましょう。
 対する隆盛は「只今取調中に付、御返答はこれより」と回答を留保し、「しかしながら甲府賊兵追い追い繰り出し、既に兵端を開き候儀は(輪王寺)宮に於いても御承知と存じ候」という具合に勝沼の戦いのことを話題にしました。甲州には慶喜の命令で3000の兵が差し向けられたというような、デマも混じって伝わってきた様子です。兵力の大小はともかくとして、討伐軍からすると徳川方が和平を求める一方で戦いを仕掛けたことは、騙し討ちだということになります。早い話が、隆盛は輪王寺宮様が謀略に一枚噛んでいるのではないかと、相手の腹を探りに出たのです。もし、輪王寺宮様までが謀略に加担していたとなると「天朝を御欺き遊ばされ候御次第」だということになります。また、「大総督宮ならびに参謀も甚だ疑惑をあい生じ候」というのも、もっともな申し分ですから「使僧、大いに恐縮」したのも無理からぬところでしょう。
 寛永寺側の『自証院記』によると、亮栄は「なにとぞ実際を重ねて伺い奉るべし」と、事実を確認したうえでの再交渉を求めています。

『復古記』第九冊p269

 使僧たちにとって、輪王寺宮様を歴史的な美談の主人公とするという夢は、簡単に諦められるものではないでしょう。しかし、この交渉の当事者は相互不信に陥ってしまいました。
 九日には義観が登城して二人の武家参謀と面談し、「甲州表、慶喜の命をもって兵を向け官軍へ抗し候旨」について(輪王寺宮様が)「深く御驚愕の事情」を伝えました。

『復古記』第二冊p806
 輪王寺宮様からすれば痛くもない腹を探られたわけで、驚愕ばかりか不愉快と思し召していたことでしょう。しかし、単に驚愕したというのでは釈明にもなりませんし、和平交渉は暗礁に乗り上げたままてでした。

 このように、勝沼の戦いは岩倉が書いた和平へのシナリオを完全に破綻させてしまいました。そして輪王寺宮様の体面を汚すことにもなったのです。あの小さな戦いが、このように日本全体を揺り動かすような事態に発展しようとは、一方の当事者たる大久保剛こと近藤勇は、想像だにしなかったことでしょう。



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