近藤勇・流山前後10 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

大久保剛の書翰
慶応四年三月五日(1868年3月28日)


 この日、大総督の熾仁親王様は、鞠子宿で先行していた大総督府下参謀の西郷隆盛の出迎えを受けたあと、駿府に入られました。東海道先鋒総督の橋本実梁とも合流し、来たるべき歴史的名場面の新政府側の役者が顔を揃えたのです。
『復古記』第九冊p262
 このときすでに大総督府から輪王寺宮様へ書翰(三月三日付)を発し、駿府で会見する約束になっていました。
『復古記』第九冊p257
 また、勝海舟は「軍門参謀閣下」にあてて和平を求める書翰(三月五日付)を山岡鉄舟に持たせ、駿府に派遣しました。すでにトップ会談が準備されている場面なので、くどいと思わせられるほどの念押しでしたが、あとになって効果が現れます。
 江戸総攻撃の中止という、誰から見てもわかりやすい形で決着させるためには、さきに総攻撃を命じておかなければなりません。その発令もまだでしたし、徳川慶喜の処分や徳川家の領土削減など、和平の条件を決めるのもこれからでした。このように残された課題もあったのですが、大筋において和平の段取りは順調だったのです。

 このころ、東山道軍の板垣らは甲府城を接収し、甲府町奉行の若菜三男三郎にあてた書翰を押収しました。その書翰の送り主は徳川家から甲府取り締まりを命ぜられた大久保剛と称する者で、「毛頭官軍に抗敵する意なし」と討伐軍への敵対を意図していないことを述べ、「御進軍御止めになる様」に討伐軍を説得することを依頼する内容でした。
 この書翰を読んだ板垣らは、大久保剛が戦闘準備のための時間稼ぎを図っていると見ました。それというのも、勝沼宿へ放った斥候の六日朝の報告で、その大久保隊らしき部隊が西からの攻撃を防ぐように胸壁を築いていることを知ったからでした。板垣らは攻撃を決意します。

『復古記』第十一冊p304

 しかし、それは無謀な決断といわざるを得ません。のちには薩長土と並び称されることとなる土佐藩兵ですが、この時点では訓練不足であり、外国軍との戦闘を経験した薩長両藩の部隊とは比較にならないほどの未熟兵でした。
 このとき土佐藩の将校の一人だった谷干城の『東征私記』によると、江戸へ進駐してから初歩の訓練を施し、「漸く尖弾を逆に込める者は無くなれり」というありさまでした。このときは江戸に入る前ですから、ろくろく弾込めすら出来なかったはずです。

『谷干城遺稿』上p94
 板垣らは鳥羽・伏見の戦いにも参戦しておらず、率いていた迅衝隊ともども、これが初陣でした。ともに行動していたのは、鳥取藩の指揮下にいた草莽諸隊の一つである丹波山国隊で、これまた急遽編成された部隊ですから未熟ぶりは迅衝隊と似たり寄ったりでした。

 ともあれ、板垣らは無謀にも攻撃に出ました。どれほど板垣らが意識していたかどうかはわかりませんが、ここへ来て和平の夢は脆くも破れようとしていました。土佐藩兵という素性の確かな部隊ですから、偽官軍として扱うことは出来ません。あくまで彼らは"官軍"として大久保隊と戦うことになるからです。



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