近藤勇・流山前後34 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

徳川海陸軍一同の嘆願
慶応四年四月九日(グレゴリオ暦1868年5月1日)


 この前日にあたる八日(4月30日)、征討大総督の熾仁親王様は駿府を発し、江戸に向かわれました。東海道先鋒総督府への通知によると、和戦両様の構えで乗り込むおつもりで、きたる十四、五日には到着の御予定とのことです。
『復古記』第三冊p470
 ところが、この日には勝海舟と大久保一翁が江戸城明け渡しと軍艦および武器の引き渡しについて、徳川家海陸軍一同からの嘆願書を東海道先鋒総督府に差し出しました。
一、城の儀は徳川家相続の者あい定まり候まで、一時田安亀之助へ御預け仰せつけられ候様、願い奉り候。甚だ見越し候儀を申し上げ恐れ入り奉り候へども、尾張家へ相続仰せ付けられ候儀は、御免願い上げ奉り候こと。
一、軍艦銃砲は徳川家名御立て成し下され、高ならびに領地あい極め候うえにて、相当残し置き、その余は悉く差し上げ候様つかまつりたく候こと。
右二ヶ条、格別の御寛典をもって御差し許しあい成り候様、御尽力のほど嘆願奉り候。もとより有罪の私ども右様の件々願い上げ奉り候ては、上は天朝の御怒り触れ奉るも計りがたく、下は慶喜の趣意にあい背き候儀にはこれあり候へども、この際に当たり百年の生命のために、千載の汚名を捨て置き、恨みを含みて命を奉じ候様にては、海陸両軍あるいは臣子の節操あい立ち申さず候あいだ、私ども一同の心中御推察成し下さり、幾重にも貫き候様、御とりなし願い奉り候。この段、嘆願奉り候。以上。
          海陸軍一同

復古記』第九冊p464
 この文中には「恨みを含みて」などという穏やかならぬ表現もあります。また、第二条を裏読みすると、武装解除されたあとでは抵抗の手段を失うので、それより先に石高と領地を確定して欲しい。さもなくば……、という本音が見えてきます。徳川家の石高と領土とが未定であることは、幕臣たちを不安にさせていた最大の要因でしょう。
 この嘆願書を持参した海舟と一翁に応対したのは、東海道軍の参謀、海江田武次(薩摩)と木梨精一郎(長州)です。海舟の日記によると、参謀の両名は「このこと京師より仰せ渡さるにて、いまさらいかんとも成しがたし」と応じたそうです。それもまた、ごもっともで、東海道軍から大総督府を経て、さらに大坂の行在所まで伺いを立てていては、開城と武器引き渡しを予定していた十一日には間に合う道理がないのです。ただし「元千代(尾張徳川家)殿御相続のことは、かつてこれなきところ」だとして、新政府では想定していないことを請け合いました。徳川家の跡目は幕臣らが希望したとおり、田安家の亀之助(家達)に内定していることを暗に示したわけです。
 そうなると、妥結しなければならない問題は、軍艦と武器の引き渡しについてです。まず軍艦について、海舟は「軍艦にあらざる護送船は御引き渡し申さざるつもりなり、差し出し候うち、右などは御戻し下されたきなり」と、要望します。また、陸軍については「歩卒四千名、みな倚るところなきの徒なり、これらは小銃とともに御引き渡し申したきことなり」と提案します。
 幕府陸軍の歩兵たちは旗本・御家人のような累代の臣下ではなく、いわば非正規雇用のアルバイトのようなものでした。それが空前の大型倒産に巻き込まれたのですから、雇用が継続する保証もなければ、賃金の支払いすら覚束ないという事態なのです。
 そして、新政府軍は諸藩から兵力を供出させていましたが、いずれ朝廷直轄の軍隊も必要になるのは自明でした。訓練を済ませた幕府陸軍の歩兵を再雇用するのは、新政府にとっては渡りに舟ですし、また、徳川家にとっても持て余すことになる歩兵を整理できるという、まさに妙案なのでした。
 そして海舟は「櫓門・蔵舎の雑具に至りては、実に運輸すべきの日なし。これまたそのまま御引き渡しの式のみにて止まらんか」と、オマケまでつけました。
 両参謀は即答を避け「明日諸参謀に計りて、決答に及ばむ」とのことでしたが、翌十日には海舟の要望と提案を受け入れる旨、回答がありました。このとおりに事が運べば「こと簡易にして成り易く、かつ人心動揺せず、下卒生活を得、もっとも処置のしかるべきところなり」と、海舟は日記で自画自賛しています。

『海舟全集』第九巻p135
 こうした駆け引きの場面で、近藤勇の身柄を新政府側が抑えていたことは、海舟と一翁とに無言の圧力をかけていたのではないでしょうか?
 思い返せば勝・西郷ラインでの和平交渉を切り開いた山岡鉄舟は、海舟から身柄を譲り受けた薩摩藩士の益満休之助を同伴させていました。江戸の薩摩藩邸で破壊工作を担っていた浪士らの取り締まりを担当していた人ですから、いかに腹が据わった西郷隆盛とて、そんな都合の悪い生き証人を連れてこられたのでは、門前払いなど出来かねるという寸法でしょう。隆盛は破壊工作を中止するよう指令を出していたのですが、監督責任は免れないところです。一翁も勇に抗戦を命じたわけではありませんが、やはり監督責任は免れません。まったく休之助と勇とは、裏表のような存在なのです。
 土佐系の人々が極刑を強く望んでいたにもかかわらず、この時点まで勇が生きていられたのは、そんな思惑があったからかもしれません。



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