理系のための独創的発想法 | 自然科学の書棚

理系のための独創的発想法

「独創的」なことを発想するのに、人から教わってどうするんだろう、というのが本のタイトルを見ての第一印象である。

しかし、その新聞の書評には、「若いときにこの本を読んでいれば」というようなことが書かれていたので、買って読むことにした。

内容も「独創的」なことをするのに、常識の大切さが強調されている。普通、独創的なことをするには、常識を疑えというのではないのか?ノーベル賞を受賞した田中耕一を出すまでもなく、そう思うのは私だけではないだろう。

しかし、この常識こそ、本当に深いレベルでの常識こそ、大切なのである。最近よく聞かれる表現で言うなら「科学リテラシー」であろう。
科学的探究に必要な道具の一つは、直感力や想像力とならんで、主婦がスーパーマーケットで賢い買い物をするときに発揮するのと同じような常識なのである。
 フェルミは、学生たちにつぎのような質問をして驚かせたものだった。“シカゴにはピアノ製造者はどのくらいいるか?”

私はこれを読んだときのけぞった。これがフェルミ推定と呼ばれていることは、比較的最近知った。いかに常識を駆使して、答えを導き出していくかのその過程が大切なのだが、私は思考停止した。

常識で踏み固めていって、それでも常識を覆すようなことが起きてはじめて、「大発見」となるのであって、最初から常識を踏み外していては、「偽りの大発見」になってしまう。子供が常識にとらわれないのは、もともと常識が身についていないからだ。しかし、責任ある大人はそれでは困るのである。

本書には、偽りの「大発見」の見分け方についても書かれている。5つの共通項目があるという。
(1)その論文の内容が、ある一つの疑問の解決に限定されておらず、同時代の科学上のほかのすべての発見を無効のものとする主張が含まれている。
(5)その論文著者は、これまでに、それより小規模のどんな仕事も発表していない事実が知られている。

(1)は典型的な似非科学、トンデモに見られる。そんなに簡単に、先人たちの努力の結晶を木っ端微塵に打ち砕くなよ、というものだ。(5)の小さいことの積み重ねの大切さは、心に響く。

科学者が「年をとること」も痛烈だ。
経験をつんだ科学者が、重要な仕事により多くの時間をとっておこうとして、通常の仕事を若い学生にまかせきりにしてしまうことがある。すると、少しずつ計算や思考までまかせることになってしまう。愛するものとの交際は、媒介者を通してはできないのだから、科学においてもけっしてこのような態度をとってはならない。
 科学者が自分で自分の仕事をするのをやめてしまうと、すなわち、実験家なら自分の測定を、理論家なら自分の計算をやめてしまうと、すぐに、その人の年齢や資格にかかわらず老齢化がはじまる。不思議だと思う能力や、すこしでも前進できる一歩一歩の喜びは失われ、勉強しようとする欲求は消えて、うぬぼれや自尊心が強く現れる。

「愛するものとの交際は、媒介者を通してはできないのだから」には、これまたのけぞった。確かに!これは科学者に限らず、一般の仕事でも似たようなことは言えるだろう。もちろん、単純にビジネスマンにあてはめることはできないだろうが、自分の仕事ぶりを見直すのによい警笛となる。

最後のまとめの中でも、特にここが好きである。
直感に導かれながらもそれに頼ってはならない。心にわき起こる葛藤、矛盾、困難を克服する方法を見出す努力が重要である。困難のすべてを自覚しながらも、同時に、そればかりにとらわれてはならない。注意を周囲にむける能力を培うことが大切である。

科学論、科学者の卵にむけてということを飛び越え、人生論になっている。

なお、これを書いた時点で、アマゾンでは新品の販売はない。しかし、古本が、なんと1円(+送料340円)で買える。これは早い者勝ちである(さっき見たときは1円で2冊あったと思ったが、今は1冊。次は77円。これでも十分安いが)。

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