山川浩 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

山川浩、初め大藏といひ、また與七郞とも稱した。奧州會津の世臣で、遂に祿千石を食む明治元年、二十二歲にして、兵を率ゐて、藩境に鬪ひ、又若松城に據つて抗した。城陷り闔藩降つた後、斗南藩の權大參事に任じ、廢藩後靑森縣に出仕、辭して陸軍少佐に任ぜられ、明治七年、佐賀の亂に傷を蒙る。十年の役、中佐を以て出征し、其勇名世に聞ゆ。同十三年、大佐に進む、爾後、高等師範學校長、女子高等師範學校長をつとめ、明治十九年陸軍少將に陞る。又貴族院議員に勅選せられ、谷、曾我の各將軍と共に、頗る硬骨を以て鳴る。明治三十一年一月二十六日、男爵を授けらる。同年二月四日逝く。五十二歲。
 明治元年閏四月、大鳥圭介は脫走軍を率ゐて野州に鬪うたが、利あらずして退いて會津領に入つた。三王峠を越へて峠下の茶店まで來ると、此處に會津藩若年寄山川浩(此時は大藏といふ)が迎へに來てゐた。大鳥は浩と戰鬪について語ると、浩のいふ所に甚だ聽くべきものがある。大鳥の今迄會つた會津人中に於て、之れぞ第一等の人物と見倣し、大に胸襟を被いて軍事を談じた。浩は曾つて小出大和に從うて露國に渡り、西洋の文物に接して、識見もあり、學才もあるから、大鳥の感服したのも其理があるのである。
 浩は之れより、大鳥と共に軍容を整へて、官軍に抵抗し、官軍に對して會津の勁を示したが戰ひ利あらずして、大鳥と相携へて若松城に還つた。
 既にして若松城は官軍重圍の中に陷り、浩屢城を出でゝ戰つた。八月二十六日も南方面に戰つてゐると、他の方面に於て敗報あり、之れが爲に急に兵を收めて城に歸らんとして、西追手まで來かゝつた。かゝる混亂の際であるから、或は誤つて吾城兵から砲擊せられるかも測られぬ。則ち一策を考へて、若松地方特有の獅子踊の囃子を奏せしめた。之れでよく味方である事がわかり、何等の過ちもなく入城し得た。
 會津藩の降伏するや、朝廷は之れを陸奧斗南に移し、三萬石を賜うた。曩の二十何萬石の高祿に比して餘り貧弱な封祿であるため、闔藩の男女皆農桑の業に從うて、漸くにして糊口を凌ぐ事につとめた。浩素より田圃にたちて其弟妹と共に鋤鍬を執つて耕作をする。妹捨松僅に八歲であつたが、尙其纖手に肥料を汲ましめたと。
 浩、後に陸軍省出仕となりて、月俸七十圓を受けた。然し親戚故舊の救援を求むる者が多くして、其爲に家計は困難を吿げ、負債は次第に山積する。唯、ある酒屋の主人が、浩の尋常者流にあらぬ事を觀破して、舊債を論せず、日々酒を供給して決して其價を催促せぬものがある浩之れを德として、佐賀の亂に出征する時、多くの金を給せられたから、一時に仕拂うて債務を果し、爾後永く舊交を絕やさなかつた。
 明治七年二月、佐賀の亂起る時、權令岩村高俊は、鎭臺兵を率ゐて佐賀城に入つた。此時、浩は陸軍少佐で、左半大隊の參謀であつた。十五日、佐賀叛軍は砲數門を以て城を射擊する。鎭臺兵は步兵のみで大砲がないから、之れが應戰に苦しんだ。十六日、城より出でゝ戰つたが官軍に死傷あり、浩も亦負傷した。此時、敵は三千の兵を有し、之れに對する官軍は三百しかなく、此處に到着すべき右半大隊の三百の兵がなか〳〵に來ないから、防戰之れつとめた。けれど、彈丸糧食の缺乏を感じかけ始めた。
 空しく此處に座して倒れるよりも、敵を衝いて出で、右半大隊と相合して、再び敵を滅ぼす策を取るべしとなつて、半大隊を三分し、負傷せる浩は、岩村權令と共に其中隊に居り、十八日城門を開いて死を冒して突出した。敵の迎擊劇しくして、吾軍の死傷者が續出したが、それでも圍みを突いて脫する事を得た。而して佐賀軍は幾もなくして、官軍の大擧進擊するに逢うて脆くも潰え去つた。
 明治十年の西南の役に於て、救援の官軍中、熊本城下に第一に馳せて、連絡を遂げたのは、浩であつた。浩、時に陸軍中佐で、陸軍少將山田顯義の別働第二旅團の右翼指揮官であつた。
 四月十四日、熊本城より見ると、川尻方面に於て、戰聲最も接近し來り、薩軍往々潰えるの影を認め得た。正午頃、城外各所に兵火起り、薩軍の漸次退却するものがある。頓て砲聲も鎭まり、午後四時頃、復もや城下に於て盛んなる銃聲が聞えた。忽ち喇叭を吹き、旗を振うて進み來るものは、之れ援軍の別働旅團兵である。城を仰いで呼んで曰く、別働第二旅團山田少將の右翼指揮官山川中佐、選拔隊を以て敵を破り來つた、後軍ついで馳せ來ると。城兵俄に歡呼して之れを迎へた。
 此日、浩は其隊を指揮して、加勢川を涉り、前進して敵情を偵察せしむると、敵は意氣阻喪の色があるといふ。殊に下流に當つて、火焰のあがり砲聲次第に遠去かるは、之れ吾軍の左翼が已に川尻を陷れ、敵を驅つて進入してゐるのであらう。此好機を逸すべからずと。浩は令を下して、哨喊猛進し、敵を加勢川の北岸に蹙め、勢に乘じて追擊の手をゆるめず、全く之れを追ひ散らして了つた。
 敵の中には近傍の村落竹樹の間に潛み匿るゝ者があるけれど、是等の搜索に時を費さず、浩は木村中尉、田部中尉の隊を率ゐて、北ぐる敵を逐ひつゝ、態本城をめがけて馳せつけた。
 熊本市街に近づくと、長六橋邊に敵の殘れる者がある。浩以爲らく、吾軍此儘に城下に赴けば、城兵敵味方の區別がつかすして、吾隊に向つて來るに違ひない。斯ては味方同志擊の銃火を交へる虞れがあるからとて、福富少尉をして選拔隊十人を引率せしめ、嚴に發射を禁じて突進せしめた。果して城兵、官軍の來援を知らずして砲を放つた。浩こゝに於て喇叭を吹かしめて發射を戒め、城下に達し、手旗を振つて、吾軍の來援を呼んだのである。時に午後四時。
 籠城五旬餘、困弊の極にゐた城兵は、吾軍の救援と知つて、一齊に鬨を作り、掌をうち、旗を振ひ、病者は起ち、負傷兵は杖に倚り、栅を攀ぢ、塀に登つて、勇躍歡呼して狂へるが如きものがある。重傷者の動く能はぬものは、病床に危坐して啻泣くのみであつた。
 熊本鎭臺の參謀長樺山中佐以下の將校は、城を出でゝ迎へた。浩、城に入りて、司令長官谷干城に會ひ、急に使を馳らして、入城の旨を川尻にゐる山田少將に吿げた。城中は此救援軍を歡待するが、浩は辭して、吾隊は他との聯絡を顧みずして猪突進んで來たのであるから、敵兵が再び虛に乘じて城下に還り、市街を燒いて、吾本軍との聯絡を斷つ時は、取り返しのつかぬ事になるとて、城を出て、市街に舍營し、伏を其左右に設けて、火を滅して、夜襲に備へ、其儘曉に及んだ。
 此日、黑田參軍は、初め、吾各旅團に令して十四日、川尻を拔けば、十五日木原山に蜂火をあげるから、それを合圖に、各隊熊本に入れよと命じて置いた。此爲に他の隊では約束を守つて出動しなかつたのを、浩、獨り挺進したのであるから、他隊の將校は、浩の獨斷を責めた。
 山田旅團長は、直に浩を召して譴責し、後來を戒めた。或人曰く、浩は命令約束を破るが如き人物でない。當時、使を馳せて山田少將の許しを請ひ、使還つて之れを許されたと佯り吿げたから、遂に猛進して熊本城に達したものであると。


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