貴島淸、天保十四年、鹿兒島に生る、通稱宇太郞、名は淸、後に國彥と改む。世々鹿兒島藩士である。明治戊辰には奧羽の出征軍に從うた。明治四年、近衞陸軍少佐、尋で鹿兒島分營長となる。同七年、職を辭し、西南の役、初めは私學校黨と容れざるものあるより從軍しなかつたが、愈熊本に於て開戰したとの報達するや、縣令大山綱良と謀つて、壯丁を募り新に一隊を率ゐて、熊本に至り、植木方面に於て鬪うた。四月、振武隊の監軍となり各處に轉戰。九月四日、最後の勇を鹿兒島の米倉攻擊に振ひ、亂鬪裡に憤死した。三十五歲
明治十年、私學校黨の蹶起した時、淸は平素該黨と善からぬ處があつたから、共に發せずして、其起つべき時機を待つてゐた。其內桐野利秋から奮起を促して來た故、大山縣令と諮つて兵を率ゐて豐後方面へ突出し、大阪に於て、曩に出軍した諸隊と會はんと企て、其兵を具して出でたが、途に田原方面の急を桐野から報じて來たから、方向を轉じて熊本に至つた。
時に官薩兩軍は田原に封峙して激戰を繰返へしてゐた。淸は此戰鬪に加つて勇奮縱橫に力鬪した。しかし官軍は次第に其軍勢を加へて、薩軍を壓し。三月二十日、夜來の大雨歇まざる內に、曉霧に乘じて進擊して、遂に薩壘を拔き、進んで植木を突き、火を民家に放ち、退却する薩軍を追擊した。
淸は中島健彥と共に、撰拔隊三十餘名を率ゐて、向坂の要害に據つて、官軍を禦ぎ、拔刀猪突して之れを潰亂せしめた。之れは向坂の大捷として、西南戰史上の華といはる。
官軍の一隊、出水方面より進出すると聞き、淸は一箇中隊を率ゐて川內に至ると、出水方面の伊東祐德が官軍に降り、官軍は當に、鹿兒島の背面に出でんとするの情報があつた。淸曰く天正の昔、豐太閤の薩摩を攻むる時、出水の主將、敵に降つたが、夫れと之れとは誠によく類似してゐると。自ら少數の兵を以て敵の大軍に迫つたけれど、固より捷つ事かできず、去つて本隊に合せんとて、入來に至ると敵軍が已に充滿してゐる。淸、從容として迫らず、泰然として敵前を過ぎ、大聲、薩將貴島淸、此處を過ぐと叫びつゝ進んだ。官軍其氣勢に壓せられて空しく望み見るのみであつた。
薩軍、鹿兒島に退き、深く私學校及城山の堅に據る。淸、議を呈して曰く、今日の狀勢を轉回するは、米倉の官軍を擊退して、鹿兒島を全く吾軍の占有となし、再び薩人を鳩聚して、諸方の同志と呼應して、中原に進出するの機會を作るにあるのみであると。而して自ら米倉襲擊の任に當らん事を請ふ。
桐野利秋、之れを聽いて、楠公の湊川に於けると同じ決心を以てせよといふ。淸は、初め私學校黨と共に起たず、中途から兵を提げて戰場に赴いたから、此間の消息を誤解する者もあるらしかつた。淸此點を詳に語つて、其心衷を明かにし、死士百餘名を拔いて、九月四日の未明米倉襲擊を敢行した。
拔刀隊百餘名を分つて、二隊とし、一隊は淸自ら率ゐ、一隊は北鄕萬兵衞之れが將となりて闇夜に乘じて潛行し、俄に白刄を閃かして、官軍の壘を衝いた。官軍周章狼狽して、亂射を浴びせる。淸等、壘下に肉薄し、死奮の戰鬪をした。其勢の猛烈なる鬼神も避くの英風があつた。
淸、殊に決死の意氣を以て、第一壘を突破して、第二壘に進み、簇がる官軍を斬り靡かしてゐた。敵の一人、淸の額を刺したが、淸はひるまず、忽ちにして其敵を斫り倒した。倂し衆寡の差甚しくして、遂に亂戰の裡に壯烈な戰死をとげた。
淸の戰ひに用ゐた刀は、大小百戰を經たものであるから、亂擊のために刄はこぼれて鋸の齒の如くなつてゐた。官軍の軍曹某、之れを戰場に得て珍重にしてゐた。後に野津道貫、之れを聞き、某から請ひ得て、淸の遺族に贈り戾した。
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