「家族や恋人のうつ病を支える人」のためのカウンセリング

「家族や恋人のうつ病を支える人」のためのカウンセリング

うつ病になった夫や妻、子供、恋人を支える人のためのカウンセリングを専門に行っています。


Amebaでブログを始めよう!

 

 

どうも。ご無沙汰してます。

 

気付けばクリスマスも過ぎ、もう今年もあとわずかで終わりですが、いかがお過ごしでしょうか?

 

 

最近の僕は、まぁ年末らしくそこそこバタバタしてますが、基本的にいつもどおり過ごしております。

 

 

さて。

 

そんな中で最近観た・・・というか観返したアニメが1つあります。

 

 

その中で、以前観たときはスルーしてたけど、改めて観たらめちゃくちゃ心に残ったセリフがありました。

 

なので、今日はそれについて少しお話したいなと。

 

 

というわけで、早速そのセリフをご紹介しますね。

 

必要なときにそこにいてくれたという事実は、ただそれだけのことで、何にも増してありがたいものだ。

━ 化物語12話より

 

上にも書いてあるとおり、これは「化物語」という作品の中で、メインヒロインの父親が言ったセリフです。

 

アニメ好きの中ではとても人気のある作品なので、もしかするとご存知かもしれません。

 

 

僕自身、昔観たときも、もちろんこのセリフのシーンは観てたと思うし、耳にも入ってたと思います。

 

でもそのときは、全く印象には残ってませんでした。

 

 

それが今になって観たとき、このことばが、すごく耳に残りました。

 

 

まぁ当時とはいろいろな面で変化もあったからでしょうね。

 

なんというか、いまの僕の心境というか、考えというか、想いにピッタリだなって思ったのです。

 

 

大学の終わり頃から今の奥さんとは付き合い初めて、

僕が社会人になって間もないある日彼女はうつ病になって、

僕自身、右も左も全然何もわからないまま、

慣れない仕事をしながら彼女を支える日々を過ごし、

何度も何度も絶望するような出来事が起こり、

それでもなんだかんだでそれらを乗り越え、

今では奥さんの状態も、ほぼ回復したといえるレベルにまでなりました。

 

 

そうやって過ぎ去った時間を数えてみれば、もう10年。

 

 

その長いような短いような年月の中で、人と人との関わりにおいて何より大切だなーと感じたこと。

 

それが、先ほどのセリフに凝縮されてるなぁと、すごく思うのです。

 

 

 

究極のところ、うつ病などの心の病の人を支えていくという状況において、多少大げさに言えば、相手に対して直接的にできることなんて、ほとんどないと思います。

 

とは言いつつも、僕自身実際は

 

食事を作ったりとか、

諸々の家事をすべてこなしたりとか、

時にはお風呂にまで入れてあげたりとか、

 

「俺は介護士だっけか・・・?」

 

なんて思うことも多々あるような生活でしたので、いろいろと手助けはやってきてはいるんですけれども。

 

 

ただそーいうことではなく。

 

なんというか、コトの本質というか、

 

「人を支える」とか

「人を助ける」とか

 

そーいうことの根幹にあるべき「あり方」って言うんですかね。

 

 

それが

 

「本当に必要なときに、そばにいる」

 

ということだなと、いまあらためて思うのです。

 

 

必要なときに、そばにいる。

 

ただそれだけのこと。

 

だけど、それが何より大切で、有り難いことなんだと。

 

 

それは自分で言うのもなんですが、

 

「奥さんにとっての僕」

 

という存在は、たぶんそうだったんだろうし、

 

「僕にとっての仲間や友人たち」

 

という存在もまた、間違いなくそうだったと思います。

 

 

本当に必要なときに、そばにいてくれた。

 

ただそれだけだけど、それが何よりうれしかったし、ありがたかった。

 

 

今の奥さんがあるのも、またもちろん僕があるのも、お互いにとって

 

「本当に必要なときに、そばにいてくれた人がいた」

 

からだと、本当に思います。

 

 

必要なときにそこにいてくれたという事実は、ただそれだけのことで、何にも増してありがたいものだ。

 

 

いま改めていろんなことを振り返っても、ほんとに心からそう思うし、そばにいてくれた人たちには、つくづく感謝しかありません。

 

 

 

気付けば、あれからもう10年。

 

いろいろあったけど、本当にいろいろあったけど、

 

ぶっちゃけ辛くて苦しかった思い出の方が多いけど、

 

でもそれらを補って余りあるほどの、人の優しさや愛を感じることができた10年だったなって。

 

 

年齢とか、立場とか、置かれた状況とか、

 

そーいった表面的なラベルを全部取っ払ってもなお、僕のことを気にかけ、助けてくれる人ができた。

 

本当に必要なときに、そばにいてくれる人がいた。

 

そのことに、本当に感謝したいですね。

 

 

そして、長い目で見れば、そのキッカケをくれたのは、奥さんがうつ病になったことだったと思う。

 

だから、辛いこと苦しいことはたくさんあったけど、奥さんにも感謝したい。

 

 

ちょっと変な物言いだとは思うけれど、

 

病気になってくれて、ありがとうって。

 

そのおかげで、結果的に得難いものをたくさん得ることができたのは間違いないので。

 

 

もしも奥さんが10年前にうつ病になってなかったら、当然いまの僕はないし、たぶん相当しょーもない人生を生きてた気がするし、だいぶろくでなしになってた気がする。

 

なんとなくだけど、そんな確信がある(苦笑)

 

 

まぁ思い返しても大変なことだらけの10年だったし、

ぶっちゃけ陰で独りで何度も泣いたりもしたけど、

 

でもそれでも、

 

この10年があって、本当に良かったと、そう思えます。

 

 

 

 

・・・おかしい(苦笑)

 

書きはじめる前はこんなことを書くつもりは全然なくて、ただ例のセリフを紹介したいだけだったんですが。。。

 

気付けばいろいろ溢れてきて、こんな長くなっちゃいました。

 

 

ただ、あれから「10年」という、僕にとってはある種の節目の年の終わりだし、あらためて道のりを振り返って、いろんなことへの感謝の想いを再確認することは、いまの僕に必要なことだったような気がします。

 

なんとなく。

 

 

もちろん、いつもこのブログを読んでくださる方々にも、感謝しかありません。

 

いつもいつも、本当にありがとうございます。

 

 

今やなかなか更新しなくなったこのブログですが、今後とものんびりお付き合いいただければ幸いです。

 

そして少しでも、同じような悩みを抱える人の道しるべになれれば、とても嬉しいです。

 

 

 

それでは、いつもながらどことなく収まりが悪いですが、これ以上長くなってもあれなんで、このへんで。

 

今年も一年、ありがとうございました。

 

来年もまた、よろしくお願いします。

 

 

こんなニュースを見ました。

 

精神保健指定医、89人資格取り消し 不正取得で厚労省

 

 

まぁ昔からまことしやかに言われていたことではありますし、ようやくメスが入ったかって感じではあります。

 

 

どんな業界にも、私利私欲のために不正に手を染める輩は一定数いるものです。

 

当然医学界にも、そういった問題は根深くあると思います。

 

 

ただ精神医療の業界には、それが目に見えて多い気がします。

 

長年この業界を、主に患者側の立場から観てきた人間としてはそう感じます。

 

 

そもそも

 

「ろくに人間心理を学んでないだろ。そもそも患者への思いやりが全然ないだろ。でも薬だけはやたら出すなー。」

 

みたいな人が、医師免許を持ってるってだけで、平気で心療内科とか開業してたりしますからね。

 

 

ましてや精神病院の実態なんて、本当にひどいですから。

 

入院させるべきでない人でもしれっと入院させ、薬漬けにし、抜けられない蟻地獄に嵌めていく。

 

そういったことを、私利私欲のために、平然とやる。

 

そんなことをする医師が、実際に相当いると思います。

 

 

これは実際にとある精神科医の人が言っていたことですが、精神医療の世界に足を踏み入れようとする若い医師に対しては、指導者たちはこんなことを言うそうです。

 

「患者を人間だと思うな。機械だと思え。」

 

そりゃ人の心を慮ることができない医師が量産されるのも納得です。

 

 

 

今回のニュースも、こんなのは氷山の一角だと思います。

 

たぶん実態はもっともっとヒドイと思います。

 

 

国(政治家や官僚)と、製薬会社と、医療機関が三位一体となって癒着しまくっており、患者のおかれた状況を改善することよりも、圧倒的に金儲けが優先される精神医療の業界。

 

患者側にいる人間としてできることは、常に知識を取り入れ、知恵を絞り、安易な情報に踊らされないよう頭脳武装することでしょうね。

 

 

特に家族の立場として、医師の言うとおりに処方された薬を服用させたり、入院させたりしてたら、状況は悪くなることはあっても、本当の意味で良くなることはほとんどないでしょう。

 

 

中には、本当に素晴らしい理念や志、そして確かな知識や技術を持った医師の方も、ごくごく稀ながらおられると思います。

 

もしも奇跡的に、そーいう本当に優秀な医師に出会うことができた人は、すごく幸運です。

 

 

・・・が、現実には、そうでないことの方が圧倒的に多いと思うので、大切な人は自分たちで守っていかないといけません。

 

仮に今後も病院に行き、医師と関わっていくにしても、常に冷静に客観的に目の前の医師を見極めていく「眼」を持つことが、言うまでもなく大切だなと、あらためて感じます。

 

最近、ある方からこんな質問を受けました。

 

「医者に言われた薬をちゃんと飲めば、病状は良くなるんでしょうか?」

 

 

なんかもう今さら感しかない感じですが、ただ未だに結構聞かれますね。

 

 

もちろん僕は医者ではないので、臨床的なことは言えないです。

 

ただ、過去に奥さんの病状を通して体験したことや、いろんな人から聞いた体験談を総合したことは言えると思います。

 

 

まず僕の考えの土台は、

 

薬を飲んだから病気が治るということはない

 

ということです。

 

 

もう過去に何度も何度も言ってることではありますが、僕は薬はあくまで「補助的な位置づけ」を出ないと思っています。

 

 

たとえば「筋肉をつけてマッチョになりたい」という人がいたとき。

 

必要なのは、正しい筋トレと、正しい食事(栄養補給)と、正しい休養の3つです。

 

この3つの歯車が適切に噛み合って初めて、「マッチョになる」という目標に近づいていけます。

 

 

僕は、うつ病の回復過程というのは、このトレーニングのプロセスと非常によく似てると思ってます。(というか本質は同じだと思ってます。)

 

1.適切な運動をする

2.適切な食事をする

3.適切な休養を取る

 

この3つがきちんと噛み合うことで、病気の症状は着実に改善に向かっていくと考えています。

 

 

 

ただうつ病の人というのは、症状がひどいとき、まともに運動や食事をすることすら難しくなることがあります。

 

場合によっては、布団からほとんど出られないこともあります。(昔、奥さんもそうだった時期がありました)

 

 

そういった場合、大抵は動くためのエネルギーが全くないことがほとんどなわけですが、薬はそういったときにほんの少し助けてくれる程度のものだと思うのです。

 

布団から出ることすらできなかったのが、適切なタイミングに、適切な薬を飲むことで、状況が(一時的に)改善され、結果として多少はエネルギーは出てくる。

 

そのおかげで身体を動かしたり、食事を取ることができるようになる。

 

そして身体を動かし、食事(栄養)をきちんと取るからこそ、休養の効果も高まっていく。

 

 

ただし、決してそれ以上ではない。

 

あくまで重要なのは、「運動」「食事」「休養」の3つであって、薬はあくまでそれらの補助となり得る(確実になるとは限らない)もの。

 

少なくとも僕は、それくらいの感覚で薬のことを捉えています。

 

 

なので、薬を飲んだ「から」病気が良くなるとか、そんなのは幻想だと思ったほうがいい。

 

 

たとえば筋トレをする人には、タンパク質摂取は超重要なので、プロテインというサプリメントは欠かせません。

 

まぁ厳密には、何がなんでも必要というわけではないんですが、食事のみから必要量のタンパク質を摂るにはとんでもない量を食べないといけないので、ないと効率が悪すぎます。

 

 

じゃあマッチョになりたい人が、プロテインは毎日飲んでいるけど、普段はトレーニングもせず、マクドナルドみたいなジャンクフードばかり食べていたら、果たして求める姿になれるでしょうか。

 

 

 

 

・・・・なれるわけないですよね。

 

たぶん、ブクブク太って醜い姿になっていくのがオチです。

 

 

 

要は「薬を飲んでれば病状が良くなる」と考えることは、「運動も食事も適当だけど、プロテインだけ飲んでいれば、金子賢さんみたいなマッチョボディになれる」と考えることとほぼ同じです。

 

 

 

うん。なれるわけがない(苦笑)

 

 

 

逆にいえば、正しい運動と、正しい食事と、正しい休養の3つがちゃんとできているのであれば、確実にマッチョに近づいていけます。

 

またうつ病に当てはめても、病状は良くなっていくと思います。

 

 

そこに補助としてサプリメントがあれば筋トレの効率は上がるし、薬があればうつ病回復の効率があがる、ということはあると思います。

 

 

ただ精神系の薬は、筋トレにおけるプロテインほどは、効率を高めてはくれないでしょうね。

 

むしろ副作用の方が多いし怖いので、大抵の場合は効率を下げることの方が多い気すらします。


 

という感じで、僕の中で精神系の薬の立場は非常に悪いです。

 

一応わかりやすくするためにプロテインを引き合いに出してお話しましたが、プロテインほど信頼度は高くないです。

 

 

プロテインは副作用とか基本的にないですからね。

 

別に筋トレしてない人でも積極的に摂取することをオススメできる(というか摂った方がいい)サプリメントです。

 

 

逆に薬は「できれば飲まない方がいいと思う」といつも思っています。

 

場合によっては必要になることがあるのは理解してますが、極力飲まずに済ませる道を模索した方がいいと思っています。

 

 

そもそも「薬を飲んだから病気が治った」なんて人は、少なくとも僕は、今まで見たことも聞いたこともないですし。

 

 

まぁそんなわけで、精神科の処方薬に対する僕の考えはこんな感じです。

 

ただくり返しになりますが、これはあくまで僕の経験からくる考えであり、科学的に明確な根拠がある話ではないので、そこだけはご理解くださいね。

 

ご参考までに。

 

最近あらためて思ったことは、

 

人には何かしらの「居場所」が、”絶対に”必要だということ。

 

※参考過去記事「居場所があれば、生きていける」

 

 

素朴な話、「居場所がたったひとつでもある」のであれば、人は生きていくことができると思うし、逆に、「居場所がひとつもない」と感じてるのであれば、生きていくことはあまりに辛すぎると思います。

 

 

 

そう考えると、自分で自分の命を絶ってしまう人というのは、たぶん例外なく

 

「居場所をなくした人」

 

なんだと思う。

 

 

もしもどこかにひとつでも居場所があれば、とりあえずそこに逃げられるはずだから。

 

逃げ場がない(と思ってる)から、死ぬしかなくなるんじゃないかなと。

 

 

 

僕の個人ウェブサイトの方にも書いてあるけれど、僕が好きな言葉の中に、

 

人間は結局、何によって救われるのか。

それは、たった一つでいい。

本当に自分が愛した人、自分が本当に大切に思う人と深く触れ合うことができたという、その一瞬の思い出があれば、人間は救われるのだ。

ヴィクトール・フランクル「夜と霧」より

 

というものがあるけれど、まさにこれこそ「居場所があれば、生きていける」ということだと思う。

 

 

そしてこの言葉から伺えることは、

 

「居場所」というのは、「物理的・空間的な場所」ではなく、「人との関係性」なんだ

 

ということ。

 

 

すごく落ち着く自分だけの空間。部屋。

 

これはこれで大切だと思うし、必要なことだとは思う。

 

 

けれど、それ以上に大切なことが、大切な人との関係性だということ。

 

崖っぷちまで追い詰められたとき、冗談抜きで死にたいと思ってしまったとき、何らかの救いを与えてくれるとしたら、それは「人」しかない。

 

 

本当に辛いときに、自分一人で部屋に引きこもっていても、たぶん余計に辛いだけです。

 

 

 

そうではなく、たったひとりでいいから、本当に大切な人が、何も言わずともただそばに寄り添っていてくれる。

 

それ以上に心が軽くなることはないと思うのです。

 

それは僕自身の経験的にもそう思うし、そうとしか思えない。

 

 

お金がある、とか

豪邸に住んでる、とか

地位や名声がある、とか

 

そんなのは、一時的な満足感や優越感にはなっても、根本的な安心感や救いには、たぶんなり得ない。

 

月並みな物言いだけど、そんなもんはアクセサリーと何も変わらない。

 

 

いま、僕自身もいろいろと大変なことがあって、辛いこともたくさんある。

 

残念ながらままならないことの方が多いし、自分の無力さに打ちのめされることもよくある。

 

 

でもそれでも、「死にたい」とかは特に思うことなく、普通に生きていけてるのは、間違いなく、居場所だと思える人たちがいるからだと思ってます。

 

それは妻であり、両親であり、仲間たちであり。

 

 

 

もし仮にいま、僕が独身で恋人もいなくて、両親とも仲が悪くて、またろくに友人もいなくて、ましてや仲間と呼べる人なんているはずもない、みたいな状況だったら、もしかすると僕も……

 

考えたくはないけれど、最悪の選択をしてしまっていたかもしれません。

 

 

居場所がある。

 

大切な人がいる。

 

それだけで、本当にありがたいことなんだなーとつくづく思います。

 

 

でも悲しいかな、いまの世の中には「どこにも居場所がない」と感じてる人も多いと思うし、心を病んでしまう人のほとんどは、たぶんそーいう人たちから生まれてくる。

 

 

だからそーいう人たちに、どんなカタチでもいいから「居場所づくり」の手助けをしてあげられたら、かなりの人が救われるんじゃないかなーって思うのです。

 

個人的なカウンセリングやセラピーみたいなことも、場合によっては必要だとは思うけれど、ただそれだけやってても、根本的な解決にはたぶんならないだろうなーって。

 

まがりなりにもそれを仕事にしてる自分が言うのもなんだけど、それらはサプリメントみたいなもので、あくまで「補助」にすぎないと思うから。

 

 

僕は昔から「家族療法」が一番重要だって言ってるけれど、その最大の理由は

 

家族が本当の意味で居場所になれたら、それが最高の薬になるし、最高のカウンセラーにもなるから。

 

つまり、それだけでその人は救われるから。

 

いろいろと意見もあるだろうけれど、僕はずっとそう思ってる。

 

 

 

もちろん中には、どうにもならないくらい家族との関係性が破綻しきってしまってるって人もいるでしょう。

 

そんな人には、家族とは別の「居場所だと思える人との関係性」が絶対に必要だと思う。

 

それは恋人でもいいし、友人でもいいし、仕事や趣味の仲間でもいい。

 

 

そんな人が「たったひとりいる」だけで、その人は生きていくことができる。

 

少なくとも、自分で最悪の結末を選ぶことなく、生きていくことができるはずだって、僕は思ってます。

 

 

そしてそーいう関係性は、能動的に「自分でつくる」ことができるものでもあると思う。

 

 

昔KinKi Kidsの歌で

 

♪愛されるよりも 愛したい真剣(マジ)で

 

って歌詞の歌があったけど、これって実はすごく重要で、「居場所をつくる」には「自分で何か(誰か)をまず愛する」ことから始まるんじゃないかなと。

 

 

待ってたら誰かが自分を勝手に愛してくれて、それが居場所になって・・・

 

みたいなラッキーなことは、絶対ない…とまでは言わないけれど、限りなく可能性は低いでしょう。

 

 

でも自分から興味を持って、愛していけば、いくらでも居場所は増えていく可能性があると思うのです。

 

そしてそーいうご縁は多ければ多いほどいいので、だからこそ新しいことに挑戦するのは大事だし、新しい出会いも大事だと思います。

 

それがいつ、どうなって自分の居場所になってくれるか、わかりませんからね。

 

 

新しい出会いは、怖さもあるし、ある種のストレスにもなるでしょう。

 

けれど、それ以上に、「自分の居場所」という、生きるために欠かせないものにつながる可能性があるので、絶対に自らすすんで求めていった方がいい。

 

 

それが後々に、自分自身を絶望の淵から救ってくれることになるかもしれないわけなので。

 

 

 

P.S

もしも僕が、そんな出会いのきっかけになることができたら、すごく楽しいだろうし、また幸せだろうなってよく思います。

 

できるだけ早いうちに、それをきちんとしたサービスとして、提供できるようにしたい。

 

まだぼんやりしたイメージだけど、最近すごくそんなふうに思ってます。

 

先日、こんな記事を見ました。

 

 

子どもたちに「愛ってなんだと思う?」聞いてみたら・・・純粋な答えに胸が打たれる - TABI LABO

 

 

「愛」ってなんだろう?

 

この問いは、「生きるとは何か」と同じくらいのレベルで難しい問いだと思いますが、こーいう大人でも答えるのが難しい問いに、時に子どもの方が鋭く、深い答えを出すことって結構ありますよね。

 

 

 

 

大人は、知識や経験が多い分、どうしてもあれこれ小難しく考えてしまうことが多い。

 

でも子どもはそうじゃないから、とてもシンプルに物事の本質を捉え、言葉にしてくれる。

 

そんな子どもの姿からは、大人としても学べることだらけです。

 

 

先ほど紹介した記事の中にある子どもたちの答えの中で、僕はこの5つが特に好きです。

 

 

Elaine(5歳)
「ママが、“グリルチキン”の一番美味しいところをパパに取り分けてあげてたのね。それって、愛があるからでしょ?」

 

子どもはホントによく見てますね。素朴な日常のワンシーンから、「愛」を捉える。素晴らしい感性です。

 

Danny(7歳)
「ママが、自分が飲むんじゃないコーヒーをパパのために淹れるとき、美味しくできたかどうか、いつもひと口味見してからパパにあげているんだ」

 

ママがパパを喜ばたくてすること。パパがママを喜ばせたくてすること。子どもはそんなシーンを見て、愛を学んでいくのかもしれない。

 

Rebecca(8歳)
「おばあちゃんが関節痛になっちゃったのね。背中を丸めて足の爪にネイルするだけで痛いんだって。そしたら、おじいちゃんが代わりにネイルしてあげてるんだよ。自分だって関節が痛いはずなのに。これが愛だって思った」

 

このシーンを想像するだけで、心がほっこりしますね。僕もおじいちゃんおばあちゃんになっても、こんな夫婦でいたい。

 

Billy(4歳)
「ボクのことが好きな人はね、みんな呼び方が違って聞こえるんだよね。だからすぐ分かるよ」

 

この美しいまでの感性。多くの大人はおそらく失ってしまったであろうものだと思います。

 

Bobby(7歳)
「愛って、つまりクリスマスの朝、自分の部屋にあるもの。真っ先にプレゼントを開けるんじゃなくて、まずは想像するってことなんじゃない?」

 

「愛」とは、まず「想像する」こと。なんとも深い言葉です。

 

 

 

特に最後の子の言葉は、本当に心にグサッと刺さります。

 

 

 

価値観。思考。感情。立場。

 

他者とコミュニケーションを行う上で、相手のあらゆることを「想像する」のは、本来不可欠の要素です。

 

・・・が、多くの大人は、大抵それが苦手です。

 

 

たぶん子どもの頃は自然とできていたはずですが、大人になるにつれて、そういった想像力や感性が、どんどん鈍ってしまう。

 

結果、独り善がりの「コミュニケーションもどき」になってしまって、人間関係もうまくいかない。

 

よくあることですよね。

 

 

子どもたちのように、相手を想像し、観えたまま、感じたままをシンプルに言葉にし、思いやりをもってちゃんと相手に伝えることができたら、きっとあらゆる人間関係はうまくいく気がします。

 

 

キーになるのは、

 

どれだけ相手のことを深く、丁寧に想像できるか?

 

これはたぶん「癖」みたいなものだと思うので、「日頃からどれだけ意識しているか」にかかってくるでしょう。

 

 

 

コミュニケーションをとる相手のことを何ら想像もせず、ただ自分の言いたいことだけを言って悦に浸るのか。

 

相手のことを真剣にできる限り想像した上で、相手が欲しい言葉、欲しい行動を、できるだけ先回りして与えるのか。

 

どちらになるかは、日頃の何気ない積み重ね次第。

 

 

 

そういえば昔、

 

「愛」とは「愛する」でも「愛される」でもなく、ただ「愛である」ということだ

 

みたいな話をどこかでした気がしますが、「想像する」という営みは、まさにその話にも直結します。

 

 

特に、心の病の人と身近で接するときなどは、その人にとって「愛である」ことがとても重要になってくる。

 

そのために最も必要なことの一つが「想像力」だということ。

 

 

僕自身、近頃は(良くも悪くも)慣れてきたこともあって、妻のことを「想像する」ということが、だいぶ疎かになってたなーと、今となっては思います。

 

 

今は幸い、妻の状態は落ち着いています。

 

が、僕がこのままどんどん想像力に欠けていけば、必然的にコミュニケーションも雑になって、結果、また妻の症状がマイナスに振れてもおかしくないわけで。。。

 

 

なので、あらためて僕も自分自身の振る舞いを省みて、しっかりと相手のことを「想像する」習慣をつけて、素朴な行動を積み重ねていきたいと思います。

 

幼い子どもが純粋に、親を喜ばせたくて、親のことを想像して、一生懸命自分にできることをして、想いをシンプルな言葉にして、伝えるように。