俺達のプロレスラーDX
第27回 器用すぎる巨獣が抱えた「便利屋」というジレンマ/クラッシャー・バンバン・ビガロ
190cm 170kgの巨体、スキンヘッドに刺青、炎をデザインした全身コスチューム、側転やサマーソルトドロップ、ムーンサルトプレス、延髄斬りをこなす軽快な身のこなしと運動神経…
刺青獣、ビースト・フロム・ジ・イーストと呼ばれたプロレスラー・クラッシャー・バンバン・ビガロは、一度見たら忘れられないビジュアルと個性があった。
そして、ビガロにはもう一つの大きな特徴があった。
彼はどんな相手でもプロレスとして成立させられる技量の持ち主だった。
受け身にも定評があった。
特にスープレックスは他の大型外国人よりも投げられていた。
あれだけの体重を背負っていたら、後ろ受け身をしたくない選手が多いのだが、彼は違った。
投げられる際の豪快な受け身が相手の技の良さを引き出している。
だから、他業種の大物のプロレスデビュー相手に指名されるのである。
レスリング世界選手権フリースタイル優勝 サルマン・ハシミコフ
大相撲第60代横綱 北尾光司
元NFLスーパースター ローレンス・テイラー
元アマチュアボクシング欧州王者 トニー・ホーム
これらのプロレス素人相手でもビガロは試合をコントロールし、プロレスを魅せた。
こんなことができるプロレスラーはなかなかいない。
それだけ関係者から評価されていたである。
「俺はほうき相手でもプロレスができる」
かつてこのように発言していたビガロは、身を持って証明して見せた。
しかし、彼は余りにも器用すぎる、プロレスが上手すぎるが故に本人にとっては有難くない「便利屋」という立場にいることが多かった。
1987年新日本に初来日した当初はトップ外国人だったのに、いつの間にか「便利屋」に移行していった。ビガロはプロレス界のトップを目指したのにも関わらず、「便利屋」にジレンマを抱きながら、その立場から逃れられない運命に翻弄された巨獣だったのである。
「プロレスは基本的に子供ファンのものである」
これは30代前半のビガロが考えていた持論である。
プロレスを支えているのは子供ファンであり、もし子供ファンに忘れ去られたり、インパクトが残らなくてはプロレスラーとしておしまいだという。
彼にとっての理想のプロレスラーとは、子供ファンが、学校の休み時間に「この試合よかったね」とか「このレスラーよかったね」と語り合えるようなヒーローだという。
その子供ファンが大人になっても、「やっぱり子供の時に観たこのレスラーよかったね」と会話をしてくれる。このようないつまでも記憶の残るプロレスラーが彼の目指すものだったのだ。
もしかしたら、彼はプロレスというビジネスに対してどこか達観している部分があったのかもしれない。だからこのような持論が持つようになったのだろう。
かつて新日本でライバルであるビッグバン・ベイダーとBV砲というタッグチームと結成し、IWGPタッグ王座を獲得し無敵を誇ったことがあった。このモンスターコンビの司令塔はビガロだった。そしてビガロが一歩引くことでベイダーの強さが際立ち、BV砲は最強タッグチームとして歴史に名を刻んだ。
1992年6月、BV砲はWCWの最強タッグチーム・スタイナー兄弟と名勝負を演じた。その試合の主役はビガロだった。試合前からハイテンションに入れ込み、スタイナー兄弟に技術でもパワーでも圧倒していく。この時、ビカロから新日本プロレスの一員としての意地が炸裂していた。
最後はビガロは敗れたが、会場は総立ち。
20年以上たっても色褪せない記憶の残るタッグマッチだった。
思えばプロレスラーのなる前は、風貌が示すように塀の中で過ごした暴走族だった。
学生時代にはレスリングではアメリカニュージャーシー州3位になったが、アスリートというのは性に合わなかった。
バイカーになり、賞金稼ぎになるが、それは家族や自分にとって最良の選択ではない。ちゃんとした仕事に就きたい。
そんなときにプロレスに出会う。
元プロレスラーであるラリー・シャープ率いるレスラー養成所モンスター・ファクトリーでのトレーニングを経て、1985年にデビューすると、早い段階で頭角を現す。
新日本で4年間活躍すると、WWF(現・WWE)にトップヒールとして移籍する。当時のWWFのエース ブレット・ハートと抗争相手になるも、次第にやはり「便利屋」というポジションに収まってしまう。
日本で行われた初めての金網バーリ・トゥード(何でもアリの格闘技)U-JAPANのメインイベントにも急きょ出ることになった。当初は、. UFCでも活躍した"怪人"キモの相手はビッグバン・ベイダーを予定していたが、ベイダーがそのオファーを回避したため、ビガロに白羽の矢がたった。
ビガロには日本で知名度があるトップ外国人レスラーだったので、主催者側にとっては集客目的のためにオファーをしたのである。
そして、ビガロは本領発揮できず、秒殺されてしまう。
プロレス以外のリングでも彼は「便利屋」として扱われてしまう。
ビガロは「便利屋」というポジションに嫌悪感を抱くようになる。
元NFLスーパースターのローレンス・テイラーとの試合が終わり、彼は100万ドル(約1億円)を手にしたビガロはこのようにつぶやいたという。
「もうこんなことはやらない」
2000年7月、ビガロは自宅付近で火事に巻き込まれた近所の子供を大火傷を負いながらも助け、その勇気ある行動は感動を与えたが、その後遺症がひどかった。体の40パーセントをやけどする重症を負い、やがてプロレスからセミリタイアしていった。
サンドイッチとお惣菜の店を立ち上げるが、やはり客商売は性に合わなかった。
家でひきこもり生活をしていると、今度は妻から三行半を突き付けられ、離婚。
2005年、バイク事故を起こし、同乗していた当時付き合っていた彼女が意識不明の重体になってしまう。
次々と襲いかかる災難。
離婚してから3人の子供達には会えなかった。
生活苦で養育費も滞納が続いていた。
さすがの受け身が上手い巨獣にも、ここまでの波状攻撃が続くと耐えられない。
2007年1月19日、新しい恋人のアパートで静かに息を引き取った。
享年45歳。
死因は不明だが、薬物の大量摂取による副作用という説があるという。
プロレス界のトップを目指した巨獣は「便利屋」という不本意なポジションでプロレスを続けた。
ビガロは運命論者だったという。
人にはそれぞれに合った立ち位置や性分がある。
彼の波乱のプロレス人生も運命だったのかもしれない。
しかし、ビガロは生前、自らの手で一つだけ強引に運命を切り開いて見せた。
それは、現役生活の活躍を見た少年ファンが、大人になっても忘れない記憶の残る選手になれたことである。
クラッシャー・バンバン・ビガロは翻弄の果てに、自らが描いた理想を叶えたのである。