尾張徳川家は、徳川家のなかで最高の家格とされながら、ついに将軍を出せなかったのは、そのあたり(つまり朝鮮系でなかったため)に原因があるのではなかろうか。徳川家でありながら、尾張だけが純粋な(?)日本人の系統だったから、いわば名義だけ残すために尾張が存続したのではないだろうか。
家康の出身地から将軍が出なかったのは不思議である。偶然ではあり得まい。
将軍が朝鮮人系統になったせいもあって、いっそう徳川体制と仏教寺院によって日本の人口の八割の被差別部落あるいは農奴が支配される時代になっていったのかもしれない。
仏教寺院は庶民の、農奴や被差別の民に等しい庶民の把握のために今日で言う戸籍を管理していた。そしてどの農奴の男と女を結ばせて子を得るかの指図を坊主がやった。
庶民や農奴は当人の意志で自由に結婚なんかできなかった。
ついでながら、長崎県対馬市の観音寺から韓国人によって盗まれた「観世音菩薩坐像」が、韓国で発見されながら韓国の裁判所が返還差し止めの仮処分を決めた問題はあっけにとられたけれども、そもそもなんで寺に仏像が大事に置かれていたかといえば、信仰のためというよりも庶民を仏教で縛るためだったのである。その意味では後生大事に文化遺産などとしておく必要はなかろう。
さらに言えば、露骨に「当麻寺」なんて名が残っているが、寺は庶民に大麻を吸わせて、「これが極楽だぞ」と信じさせていたのである。その名残が「当麻寺」となったが、今はその秘密は隠蔽された。今日でいえば、日雇い労働者に覚醒剤を与えて支配しているようなものだった。
それが江戸期を通じて徐々になし崩し的に壊れていき、明治維新で(フリーメソンの策謀はあったにせよ)庶民の解放が一気になされる。
江戸期のなし崩し的解放とは、8代将軍吉宗時代から始まった、当時の大都会、江戸、名古屋、京都、大阪への人口集中現象であった。吉宗は「五街道目付」に命じて、主要街道の庶民の出入りなどの監視を(経費節約を名目に)庶民自身に担当させることにしたのである。庶民の中の、旅芸人や旅商人として許可した者(囲い地から特別に出ることを許された者)に、公認の朱鞘の刀(武士は黒鞘)と捕縛を持たせたのである。
庶民に「お上御用」に担わせて、人件費をかけない監視体制を取ろうとした。「分割して統治する」であったが、これはまったくのアイデア倒れであって、徳川政権からすれば大失敗、庶民からすれば天佑となった。
庶民から監視役を抜擢したために、これはチャンスとこの(仲間の)朱鞘の者=監視人に渡りをつけて、被差別部落ないし農奴とされた仲間たちが次から次に囲い地や農地から脱出して、博多、京阪、名古屋、江戸へと大移動を始めてしまった。銭で「町人別」を購入して、都会で商人や職人になっていった。
だから大江戸は当時世界一の100万人都市になった。
一方で警察の前身がこの「朱鞘」の木っ端役人だったから、もともと「囲い地」の出身であり、ゆえにヤクザと親戚だし、平気で税金を裏金に貯えることを集団でやらかすのだ。
勝手に自由になった彼らが町人文化を花開かせる。勝手に囲い地から脱出したのだから、いわゆる政治的に国なり体制なりが身分保障しているわけでもなく、戸籍で証明されているわけでもない、いわばみんな脱獄囚のようなものだったのである。明治維新になって日本の人口を調査したら、予想の倍も実際は人がいて、明治政府は驚愕したのだ。とても全国民を喰わせられないと踏んで政府は海外移民という棄民政策を実施する。
海外に売り払ってしまえと提言したのは福沢諭吉なのだ。諭吉も侍だったから、庶民がそもそも元は囲い地からの脱走者だったことを知っていたからだろう。囲い地の人間の命など鴻毛より軽かったのだ。
海外棄民の一例が「からゆきさん」である。そうやって庶民を大量に海外に捨てたので、運搬した商船会社は大儲けし、その海運会社の大株主だった天皇家も巨大な蓄財をなした。
庶民のほうもお互いさまだから、人権などなく、よって明治以降の軍隊では周知のように、内務班は陰惨なイジメの場となった。
海軍では軍艦の下働きにされた庶民(水兵)には、便所もろくに設置されなかった。
彼ら庶民にまがりなりのも仲間意識が芽生えたのは、軍隊とか学校教育とか対外戦争とか、新聞のおかげであったのだろう。そうやってやっと多民族国家が「単一民族国家」に出来上がっていった。
徳川政権は彼ら庶民のための警察機構は作ろうとはしなかった。お上に反抗するものは取り締まったが、庶民同士の争い事には知らん顔である。「大岡裁き」などありえようはずがなく絵空事である。庶民同士の争いに国家が介入するようになったのは、西郷隆盛が実質的首相のときに実現した。
西郷が庶民を救って自由にしたのである。明治天皇は西郷を好きだったそうだが、それは彼=大室寅之介が本当の明治天皇の成り済ましだったから、自らの出身が「囲い地」のゆえに苦労を知っていたからではなかったか。
部落は、必ずしも南朝方、あるいは騎馬民族系=源氏系の者ではないが、一応彼ら「白山信仰」の者、源氏の「白」と世間では決め付けていたので、その者らを「しろうと」=「素人」と呼び、仏教系の体制側についた者を「黒うと」=「玄人」と称するようになった。
玄人とは「黒」すなわち仏教徒坊主の衣(墨染めの衣)の意味である、しょせん、素人(白=源氏=反仏教)は、体制である仏教徒=玄人にかなわないということ意味だ、とされているのだが、これは本来的には間違いだと八切止夫は言う。
玄人とは、「玄の人」つまり原人=日本土着原住民(最初から日本人)のこと、最初からの日本人のことだと彼はいう。それが仏教を持ち込んだ支那系の仏教徒の意味に変えられたのは、明らかに作為だと八切止夫はいう。
何が作為かというと、これによって、被差別部落(囲い地=除地)は帰化人のたまり場なのだという間違った知識を植え付けることになったからである。今でももしかすると、同和の先祖は帰化人なのだと思われている人がいるかもしれないが、それは仏教坊主が意図的に悪意で広めたウソだと八切止夫は言うのである。