鳥尾小弥太 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

鳥尾小彌太、萩藩士中村敬義の長男、初め百太郞と稱す、故ありて島(ママ)尾姓を冒した。長州の奇兵隊に入り、勤王の士と交りを結んだ。明治戊辰の役、壯丁を集め得る事二十、鳥尾隊と稱して、伏見に戰ふ。後、紀州藩に聘せられて、其改革につくす。明治三年十二月、兵部省出仕。同四年、陸軍少將、爾來專ら軍務に從ひ、軍務局長、陸軍少輔、大阪鎭臺司令長官等を歷任した。明治九年、陸軍中將、陸軍大輔に任ぜらる。後に參謀局長となる。十年の役には、專ら官軍の兵器彈藥糧食等の補給につとめ、後方勤務をなした。同十二年近衞都督、同十五年、統計院長、十七年、特に華族に列し、子爵を授けらる。爾後、元老院議官、樞密顧問官等を歷任し、貴族院議員に當選した。號を得庵といひ、頗る禪學の造詣深し。正二位勳一等に陞敍さる。明治三十八年四月十三日逝く、五十九歲。
 小彌太、禪を學んで、活殺の機縱橫に至る。多年の紺鎚をうけた結果として、八方來には八方打の手腕がある。小石川高田に庵室を構へ、風月を友として樂しむ。或る日、伊藤博文、山縣有朋等を庵に招いて、窃かに功名富貴に憧がれるなきを諷する所があり、滔々數時間に亙つて宗敎を論した。
 伊藤曰く、君の禪に熱心なる實に感服の至りである。其いふ所も禪僧と殆んど區別する所を知らぬ。乞ふ、此上は剃髮して佛籍に身を投じては如何。言裡暗に冷嘲の意があつた。小彌太笑つて曰ふ。聞く如くんば、貴下は近頃宮內省に人つて、頻りに神祗の事務に委はるゝとか、然るに何故を以て衣冠して神官の風を爲さぬのか、却つて之れを承りたいと。流石多智の伊藤も此返答は困つた。
 哲學者某、小彌太を訪問して、談、靈魂の事に及び、靈魂は頭腦に在りと、頻りに西洋科學的の受賣りをした。小彌太、突如、哲學者の股を抓る。其痛みに堪へず叫ぶと。小彌太ぬからず、靈魂は偶股にも在つたと。云ひも經らず、次に哲學者の腰を抓つた。哲學者又叫んで痛さを訴へた。小彌太徐ろに、腰にも靈魂がゐるではないか。
 小彌太、壯時、卓落不羈、奇兵隊に入りて亂暴者の評があつた。こゝに於て其累の父母に及ばん事を虞れ、除籍して家を出で、鳥尾の姓を冒すといふ。
 長州奇兵隊の野村光三、後に商業界に身を投じ、山城屋和助と稱して、一時橫濱の三豪商の一に數へられたが、明治五六年の頃、官債を負うて屠腹した。前に和助の勢力盛なる頃には、車馬門に輻輳してゐたが、一たび訃音傳うるや、之れを訪うて、弔する者がない。小彌太、奇兵隊の昔に昵知の間柄であつたから、獨り東京支店を訪うて、今日の窮難に一臂の勞を執らんといふ。
 然るに和助の柩を東京から橫濱に送るに金子がない。番頭其旨を吿げると。小彌太、費用は幾許を要ずるかと問ふ。曰く二百金。小彌太之れを聞いて、番頭を携へて吾邸に歸り、家人を呼んで現金のあるものを聞く。五百金ありと答ふ。小彌太曰く、今月の費用はいくらあつたら足るか。曰く百金。小彌太、乃ち、四百金を香頭に與へ、之れで主人の葬式をよくしてやれよ長州人の體面を汚してはならぬといひ聞かした。
 十年の役、小彌太、大阪に在つて專ら兵站の事に與り、兵器軍需品の補給にいそしんだ。官軍は正面背面共にまだ熊本城と連絡せぬ。小彌太、之れを憂ひて、親しく戰地を視察して、四月十日、木葉の本營に於て、山縣參軍其他の首將と會し。已に四箇大隊の兵を新に出發せしむべく、大阪に向つて命を發したが、今戰地の模樣を見ると、正面なる植木口と背面の八代口とから挾擊してゐるが、共に其目的を達してゐない。寧ろ一方に力をこめて進擊するのが得策である。それには植木口は、熊本城との距離も近いから、此方面へ八代口の軍から隊を割いて加へ、其勢ひに乘じたならば、必らず目的を達するに便なるものがあると吿げた。然れども八代口の參軍黑田淸隆之れを容れぬために、此議は實行されずに了つた。
 既にして官軍、熊本城との連絡を遂げたから、小彌太、馬關より山縣參軍に書を贈つて、全軍の改編をなさしめて、從來の混雜を除き、軍需品の補給も簡捷ならしめた。之れによりて官軍の秩序革り、諸兵の管轄よく明かになつて、戰ふに便を得た。
 小彌太の大阪に在つて軍需品の補給に當る時、九州の戰地から彈藥の請求急にして、其運送船は天保山沖に碇泊して、搭載を待つの狀態であつた。しかし之れに授與すべき品がない。小彌太、策を案じて、腹心の部下に命じ、砂石を箱詰めにして彈丸硝藥の如く見せかけ、之れを船に積んで戰地へ送らした。船から陸揚げすると、累積して彈藥甚だ豐富の如く見えるから、官軍爲に大に元氣を振うた。而して數日の後、始めて眞物の彈藥が着いたから之れを早々戰場へ送つたなら、何等の機を失する事もなくして、戰ひを續けられ、小彌太の機智は人々を驚嘆せしめた。
 小彌太、官軍の捷利はか〴〵しからぬを見て痛憤し、窃かに勇猛果敢の輕兵突騎隊を戰地に送り、夜陰に乘じて敵の中軍を襲ひて、西鄕隆盛を虜にせんとの案を考へ。陸軍中佐山地元治同高嶋信重、同少佐岡本柳之助に兵を付して、長崎に在る陸軍大佐黑川通軌の下に赴かしめたしかし黑川は此兵を以て黑田參軍の增兵の求めに充たしめたから。小彌太の奇計も遂に行はれずして止んだ。
 小彌太、樞密顧問官たる時、皇室典範を議する事があつた。小彌太は正義の議論に長じ、大義名分を明かにして、喋々論ずるが贊否をいふ者がなかつた。勝安芳傍らに在つて、窃かに小彌太の袖をひき、君の議論、時流の解するものでないから、熱心に說かれても益がないと私語すると、小彌太、聲を勵まして、皇家百年の大計を議する時、貴下の容喙を許さぬ。今日の事は亡國の臣の考へ及ぶ所でないと。之れがため安芳默していふ所を知らず。聚、小彌太の議を贊成して之れに定つた。
 陸奧宗光、紀州の人である。明治二年、紀州藩兵制を改革せんとて、小彌太を聘して之れを委托した。小彌太、來紀して陸奧の家に寓する。兩人共に年齒若く、而も殆んど同じき齡であつたから、交誼朗る密であつたが、小彌太由來朝寢坊である。陸奧、小彌太の枕を蹴つておこす。小彌太怒つて無禮を詰る。陸奧則ち、手を以てすると足を以てすると何れか異るやと論じ、兩者固より辯を好む者であるから、之れより滔々論戰して時の移るを忘るゝの狀があつた。
 後に小彌太、陸軍少將となり、陸奧は元老院幹事となり、相遇ふ事がある度に、舊時の如く雙方論駁に耽る。ある時、會飮して、當時の人物を罵り、朝野其人なきを評した後。陸奧曰く汝と我れと何れが人傑か。小彌太曰く、固より乃公である。陸奧笑つて、汝の野狐禪、いかで我れに及ぶべきといふと。小彌太は、俗吏何をか知らんと應酬した。陸奧則ち曰く、然らば汝は吾爲す如く爲し得るか、詩や如何、文や如何、圍碁や如何、酒量や如何と。小彌太鼻端に笑ひを浮べて、汝の數うるものは皆之れ未節の小藝のみである。そんなものは乃公の價値に無關係だと。


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