近藤勇・流山前後56 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

近藤勇、板橋に死す
慶応四年四月二十五日(グレゴリオ暦1868年5月17日)


 この日、近藤勇は板橋で斬首されました。首級が京都へ送られて晒されたことや、親族による埋葬が許されなかったことからすると、刑罰の種別としては獄門に相当することになります。
 世に英雄と称されながら梟首された人というと、江藤新平が思い浮かびます。政府高官を経験した人に対して極端な刑罰を与えた事例です。すでに四民平等が布告されていた時のことではありますが、士族の籍から除いて平民の扱いとする手続きを経たうえで獄門になりました。
 江戸時代においては、武士が磔や獄門で処刑されることは、新平の場合と同様に、士籍を剥奪して庶民の身分にしたことを意味します。ここで武士とはなにかを考えておきましょう。はっきり武士だといえるのは、大名や旗本、あるいは大名の重臣などの家臣で、武士の戸籍簿に相当する分限帳に「士分」として記載されている人です。浪人は武士として就職を希望していたから苗字帯刀をしている人であって、本来は武士のうちに入りません。たとえていえば、就職活動中の大学生がビジネススーツを着てネクタイをしていても、社会人ではないのと同じです。
 勇の場合は、すでに徳川家から脱走人と見なされていました。そうしなければ江戸開城を実現できなかったからだというのは、すでに述べたとおりです。つまり、このとき勇は徳川家の分限帳に載っている武士ではなかったということになります。ですので、新政府が士籍を剥奪するまでもなく、すでに勇は武士としての身分を失っていたということになります。
 ちなみに、土佐勤皇党の武市瑞山は郷士ながらも士分として切腹、脱藩して無宿人となっていた岡田以蔵は獄門になっています。この事例は、勇が獄門となったことに対する参考になるでしょう。
 勇の処刑を東山道軍の『総督府日記』では、以下のように伝えるのみです。
日記また云ふ。四月二十五日、近藤勇並びに附属の新撰組一人、斬罪に処す。

『復古記』第十一冊p437
 附属の新撰組一人とは誰を指すのか不明です。よく知られているとおり、流山から勇に同行した野村利三郎と、松涛権之丞の書状を持参してきて捕縛された相馬肇とは、勇の最期の嘆願によって釈放されています。また、大河ドラマ『新選組!』に出てくる滝本捨助のくだりは、もとよりフィクションであり事実ではありません。
 さて、勇の首級は京へと送られたわけですが、護送したのは東山道軍の大監察である北島秀朝という人でした。水戸藩領だった下野国那須郡武茂郷(現在の栃木県那珂川町)の神官の子で、詳しい履歴はコチラで読むことが出来ます。この秀朝が、たまたま京へ出向く用事があったので、勇の首級を託されたわけです。
北島秀朝事蹟に云ふ。三月、奥羽の藩々、多く賊軍を援けて起る。督府の兵、進て下野に入る。頗る苦戦す(原註、薩、長、因、彦根、大垣、忍などの藩兵)。この時、本営の兵将に尽んとす。而して賊兵しげく起る。四月、秀朝、督府の命を奉じて上京して、東国の形勢を上言し、朝廷、更に大軍を発し、速に東北の賊を平らげられんことを奏請す。五月、秀朝、江戸に帰る。

『復古記』第十一冊p569
 奥羽諸藩が「賊軍を援けて起こる」というのは閏四月以降のことですし、いささか記憶違いがあるようですが、京への用向きは単なる状況報告にはとどまらず、大規模な増援を要請するとともに、早期の奥羽鎮定を提案するという、かなり重要な任務だったのは本当です。
 どのように運んだかを『北島秀朝事蹟』から見てみます。
(上略)近藤勇を板橋駅外に斬り、その首を樽に納む。秀朝の上京するや、傍らこれを護送すべきの旨を受け、秀朝日夜兼行して、二条城大政官代に至り、委さに東国の状を奏し、また賊首を刑法官に出す。樽を開けば則ち首なほ生るが如し。百官見て以て奇となす。是れ火酒を以てこれを浸せばなり。五月、秀朝江戸に帰る。

『復古記』第十一冊p437
 勇の首級は樽詰めにされ、火酒に浸して運ばれたのでした。火酒とは、火を付ければ燃えるほどアルコール度数が高い酒のことで、おそらくは焼酎でしょう。そして、まだ生きているかのような状態で届けられたというのです。
 斬られる前に、勇は髭剃りを所望したといわれます。身だしなみを気にしていた勇としては、見苦しい首級を晒されずにすんだのは、せめてものことだったでしょう。

 首級になった勇が京で晒されるまでの間にも、歴史は動いていました。この連載は、いますこし勇が投じた一石の波紋を眺めつつ、その死の意義を見つめてみたいと思います。



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