川上操六 01 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

川上操六、嘉永元年十一月十一日、鹿兒島郊外、吉野村の東北中ノ丁に生る。父傳左衞門は島津侯の世臣、操六は第三子にして幼名を宗之丞と呼ぶ。文久三年、歲十六にして藩校造士館に入り、每日二里餘の道を通ふ。十八歲にして簡拔せられて特に造士館の師員に列す、蓋し穎才を認められたのである。慶應三年、藩兵の分隊長と爲る、時に二十歲。明治戊辰の役に諸處に於て鬪ひ、特に斥候として函館方面に派遣せられた。明治四年、陸軍中尉に任じ、御親兵大隊附を命ぜられ、幾許もなくして大尉に進んだ。明治七年、陸軍少佐に任ぜられ、近衞步兵第二聯隊第一大隊長となる。此年、佐賀に亂あり、操六、出張を命ぜられたが、神戶に到りたる時、叛徒平定の報があつた。明治十年鹿兒島の私學校黨兵を起すや、操六、朝命をうけて熊本鎭臺に出張し、二月十九日、熊本に着して、城將谷干城參謀長樺山資紀等を扶けて、守城に任に就いた。第十三聯隊長與倉陸軍中佐、敵彈に斃るゝに及び、操六之に代つて、同聯隊長心得となつて、隊を指揮し、遂に征討の畢る迄、日豐肥薩の間に轉戰した。明治十一年、陸軍中佐に任じ、佐賀鹿兒島の戰功を以て賞賜せられた。同十五年、陸軍大佐に任じ、近衞步兵第一聯隊長となり、同十七年、陸軍卿大山巖に隨ひて歐洲に赴き軍事を視察す。同十八年、陸軍少將兼參謀本部次長、同十九年、兼官を免じ、近衞步兵第二旅團長に補せらる、同年、復た歐洲に軍事を視察した。同二十二年、參謀本部次長に補せられ、爾來永く帷幕に參じて、軍務の樞機を與り、最も功績があつた。明治二十三年、陸軍中將に陞り、同二十七年、日淸干戈を交へるや大本營陸軍上席參謀にして兵站總監となり、大本營親征に供奉して、神籌妙算をめぐらし、赫々の武勳を樹てゝ功を以て子爵を授けられ、功二級に敍し金鵄勳章竝に年金千圓を下賜され、勳一等に敍し旭日大綬章を賜はり、至勳者を以て目された。明治三十一年、參謀總長に補せられ、陸軍大將に陞された。翌三十二年、五月十一日、五十二歲にして薨す。從二位に敍せられ、旭日桐花大綬章を投けらる。明治の智將として世に仰がれ、日淸戰役の捷利は偏に其戰略運籌に依るものと激賞せらる。


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