利七りしちは川に流された。罪を犯したのではない。当座の干し飯ほしいいを渡され、いかだに毛の生えたような舟で生まれた から追われた。罪と言えば、末子に生まれ、百姓家ひゃくしょうやの暮らしを危うくすることが罪だった。家制度いえせいどがいかめしく根付いていた江戸時代である。長男は絶対的な家長かちょうとしてすべてを取り仕切り、次男は分家ぶんけとは名ばかりに蚕部屋かいこべやを与えられる。ましてや、兄姉あにあねの後、七番目に生を受けた利七に居場所 は無かった。十六になると口減くちべらしのため、家を出されたのだった。生来、凡庸な男である。利七 は冷酷なあしらいを恨むことも知らず、舟に乗った 

ごつごつとした岩を縫い、水底みなそこさおをさす。一日、川を下っても村落は見えない。二日過ぎ、三日過ぎ 干し飯が尽きかけた頃、遠くの山肌に茶畑が見えた。近づいてみると、狭隘きょうあいな土地に棚田たなだと十軒ばかりの百姓家がある。利七は川端かわばた竹林たけばやしに舟をつなぎ、「新天地」に足を踏み入れた。村落の中で抜きん出て立派な屋敷 の門をくぐると、果たしてそこは庄屋しょうやの家であった。利七は庄屋の情けを受けて下男げなんになり、やがて小作こさくを許された。


1.川を下る



利平りへい背徳没倫はいとくぼつりんの人であった。生まれ育ちがそうさせたのかも知れない。小作の貧しい暮らしは幕府が瓦解がかいした明治の御代みよになっても変わらなかった。利平のやたらと頭が回ることは、利七から連なる家系にあってはとつとして現れた性質であった。精を出し、頭を使って五石取りごこくどりを成し遂げる。しかし、庄屋への年貢 のために暮らし振りは一向に良くならなかった 

地租改正により田畑でんばたを売り買いできるようになったことは利平に知恵をつけた。どんな奸計かんけいを巡らしたかは定かでない。利平は自作農 の土地を次々と我がものにした。察するに、巧みな口上 で金を貸し、不作の引き当てに田畑を手に入れたのであろう。夜陰やいんに紛れた村人によって川に突き落とされたことが利平への恨みを物語っていた。川からい上がった利平の取り立ては、ますます苛斂誅求かれんちゅうきゅうきわめて行った。


2.手に入れた棚田



時代は昭和に移り、利徳としのりは地主として広大な田畑と山林を受け継いだ。とお以上の部屋から成る屋敷の門屋もんやには小作人を住まわせた。一銭銅貨を改鋳かいちゅうして作らせた手炙てあぶり火鉢と、当時としては農村に珍しい蓄音機 が自慢である。利徳は稲の取れ高と金銭のやり取りを帳面ちょうめんに付ける以外に働いたことがなかった。妻のかゑかえもさながら「おひいさま」のように家仕事いえしごとをすべて女中に任せていた 

戦争 が終わると農地開放が利徳とかゑの生活を変えた。農林大臣からの感謝状一枚と引き換えに多くの田畑を失った。元の男衆おとこしに残った田畑を耕させ、少なくなった上がりで暮らすことになった。山林 と家屋敷は手つかずだったが、守りに入った利徳は年の離れた末弟ばっていに村から出るよう言い付けた。昔、利七が川を下ったのと同じように、昭徳あきのりは十二で町に下りた。二百年経っても農村は封建時代 のままであった。


3.農地解放



中学から下宿暮らしを始めた昭徳あきのりの生活は貧乏そのものだった。わずかな仕送りではぎの当たったズボンを新調 することもままならない。まかないで出されるものはたいてい白飯しろめしと漬物と湯をとろろ昆布こぶに注いだだけの汁だった。パン屋の店先から漂う香ばしい匂い に、いつか腹いっぱいにパンを食べることが昭徳の になった。

昭徳は国から借りた奨学金で大学 に進んだ。多くの教材を揃える同級生と違って学問がかなうわけもなかったが、それでも教員免許を取ることができた。 より大望があったわけではない。中学校の「でもしか先生」に就くことは糊口ここうをしのぐに充分だった。昭徳はほどなく一人の女性と恋仲になる。相手は学校 に出入りする文房具店の営業員である。結婚の約束を交わし長兄に報告すると猛反対に遭った。山持ちの由緒 正しい家の人間が売り子ごときと一緒になるとは、と。成り上がりも三代 続けば由緒になる。利徳には昭徳の心情を忖度そんたくするよりも家の体面を守ることの方が大切 だった 


4.文具店



高度経済成長期に入り、山奥の寒村にもゴルフ場ができることになった。利徳が受け継いだ山々の幾つかが買収 の対象になり、まとまった金が入って来た。昭徳は四十を過ぎても子の無い利徳の養子 になっていたため、いくばくかの分け前を期待した。しかし、利徳はがんとして聞き入れなかった。先祖伝来の土地は家のものであり、自分こそが家である。嫡男ちゃくなんおろそかにすることで家が滅びに向かうことに、利徳 は気づいていなかった。

昭徳の生活はすさんだ。公営住宅に移り住んだが、それは名のみ聞こえの良い貧乏長屋だった。夜な夜な酒に酔った年寄り が騒ぐ。町内の中学生が人を刺して少年院に入ったことさえ驚きではなかった。昭徳自身、給料 の多くを賭けマージャンにつぎ込んだ。十年 余りただれた生活を送り、それでも三十半ばにして伴侶はんりょを得ることになった。教え子の一人で元は武士の家だと言う明江に、今度は家の反対は無かった。昭徳 と明江にやがて子供が生まれたが、相変わらず利徳から受け継ぐものは無かった。嫡男 であることを示す「利」の字を除いては これが私の名前の由来である。(続く) 


5.低所得者用住宅




あらすじキーワード: 江戸時代の農村における口減らし 封建時代の家制度 大和の茶畑 明治の地租改正の意味 戦後の農地解放による地主の没落 先生に「でも」なろうか、でも先生くらいに「しか」なれない「でもしか先生」 日本列島改造論による開発 低所得者用公営住宅