近藤勇・流山前後04 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

松平春嶽、和平工作を開始
慶応四年二月十五日(グレゴリオ暦1868年3月8日)

 新政府の議定(現在の閣僚クラス)という地位にいた松平春嶽は、徳川家の会計総裁をつとめる大久保一翁や陸軍総裁の勝海舟と戊辰戦争勃発後も書翰を往復させていました。『復古記』第二冊p345

 また、春嶽は慶喜から何度も謝罪の取り次ぎを求められてもいましたが、いまや朝敵となった徳川家との交際には慎重にならざるを得ないところです。もともと戦争回避のために力を尽くしてきた春嶽でしたが、開戦前に交渉のため訪れた大坂城では旧幕府側の強硬派から敵視され、あげくに鳥羽・伏見の戦いによってその努力は水の泡になってしまいました。しかし、それでもなお戦いを続けるより政治決着を優先させようとしました。


 この日、征東大総督の熾仁親王様(有栖川宮幟仁親王の第一王子)が錦旗、節刀を賜り、正式に討伐軍が発足しました。

東征大總督熾仁親王陛辭シ、出師表ヲ上ル、詔シテ、閫外ノ權ヲ委シ、節刀一口、錦旗二旒ヲ賜フ、是ニ於テ、大師啓行ス。
『復古記』第二冊p364

 この錦旗・節刀は鳥羽・伏見の戦いで征討大将軍をつとめた仁和寺宮様から返納されたもので、あらためて熾仁親王様の手に渡りました。あらたに総司令官を選びなおしたことは意味深長です。実をいうと熾仁親王様の父君である有栖川宮幟仁親王様は徳川慶喜と従兄弟の間柄なのです。討伐軍のトップが慶喜と親戚だということは、新政府は言葉によらず慶喜に対して和平を呼び掛けたと解釈できます。さらにいうと、江戸へ進撃する実働部隊を率いる東海道鎮撫総督の橋本実梁は、第十四代将軍徳川家茂の正室だった和宮様と血縁こそありませんが義理の従兄弟の間柄です。和宮様は橋本家で養育された方で、その橋本家に実梁が養子として入ったので、和宮様と同じ邸で暮らしていた時期もありました。そこに着目すると、政治の匂いを強く感じさせられる人選です。

 討伐軍が発足したその日、春嶽は慶喜が朝廷ヘの謝罪状を春嶽に托してきたことを根拠にして、討伐を中止すべきだと建議したのでした。

松平慶永、書ヲ上リ、德川慶喜既ニ其罪ヲ謝ス、宜ク大總督ノ行ヲ止メ、速ニ諸路ノ師ヲ班スヘキヲ建議ス。

『復古記』第二冊p372

 とはいえ「綸言汗の如し」というくらいで、天皇様の発した討伐命令は、出た汗を引っ込めることが出来ないのに似て、易々と撤回するわけにはいかないものなのです。そういう難題に春嶽は挑みます。


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