近藤勇・流山前後33 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

徳川家、勅旨を奉ず
慶応四年四月七日(グレゴリオ暦1868年4月29日)


 板橋で近藤勇が尋問されている間にも、歴史は大きく動きます。
 この日、徳川慶喜の代理人である田安慶頼が、東海道先鋒総督の橋本実梁に対し、江戸開城と武装解除の要求を受け入れることを文書で伝えました。
このたび、慶喜儀、寛大の御処置仰せ渡され候勅諚の趣き、慶喜へあい達し候ところ、実にもって恐れ入り奉り、謹んで天恩の忝きを拝承奉り、感泣のほか他無きこと、来る十日水戸表へ退去謹慎まかりあり候様つかまつるべく候、慶喜家臣どもへも勅旨あい達し、件を逐ひ実行あい立ち候様、處置つかまつるべく候、とりあえず、この段御請け申し上げ奉り候、以上。
   四月七日             田安中納言
                       慶頼 花押
(東征総督記 徳川慶頼家記)
 また、徳川家の臣下を死罪としないという条件も決まったので、鳥羽伏見の開戦責任を問われていた、もと大目付の滝川具知(具挙とも称す)らについて、徳川家から永預け、永蟄居などの処分が下されました。

『復古記』第三冊p461
 新政府と徳川家との和平は、このあとに控えた江戸開城と軍艦引き渡し、そして陸軍の武装解除が成功すれば完結します。しかし、すべてが順調とはいいがたく、それは東山道先鋒総督府も認識していたようで、不慮の備えとして三井三郎助、島田八郎左衛門という京都の御用商人に御用金を申しつけており、この日に二万五千両の為替が、江戸に届いています。
『復古記』第十一冊p449
 まだ財源を確保できていなかった新政府は、関西商人の献金を頼みに軍資を捻出していました。幕府の貿易政策によって壊滅的打撃を受けつつあった関西の経済界は、生存を賭して新政府に肩入れしていたのでした。

 このころ、江戸市中は不穏な状態が続いていました。幕臣の子で、当時は満年齢で二十歳だった塚原渋柿園の回想を紹介します。
……しかし、この時分一番迷惑をしたと云ふのは、蔵前の札差と云ふ蔵宿と、深川の木場の材木屋であつたらう。肝腎の商売はあがつたりに、かてて加えて、脱走の方からは
「徳川氏のための恢復の軍を起こすのだ、金を出せ。貴様達も三百年の御恩沢は知つてるだらう」
 か何かの強談で、千、二千の大金を出させられる。(原註、なかには喜んで出す者もあつたが)官軍の方でもなかなかそこらに抜け目はなく、相応の用金は云ひつけた様子である。また、この騒動の虚に乗じて、脱兵や官軍の真似をした強盗といふ奴が、錦片(きんぎれ)のついた筒袖に剣付き鉄砲を担いだり、大刀を腰にして鉄扇をもつたりして押し歩く。つまり三月、四月、閏四月、五月の頃までは、無政府と云へば、まづ云はれるもの、泥棒の豊年ともいふべきだから、質屋をはじめ、両替屋、用達商人、そのほか金銭を扱ふ店といふものは、夜は大抵商売を休んだやうだつた。なほ窃盗も、もちろん流行る。その割合に火事のなかつたのは、このころ降り続いた霖雨のせいでもあつたらう。
 しかし、一方では、小料理屋、さかり場といふ吉原、その他四宿(千住・板橋・内藤新宿・品川)の遊女屋、総じてその類の商売はなかなかにぎやかで、つまりそれは、官軍の方は知らぬが、私どもの方は、毎日諸方へ寄り合つては妙な相談に夜間まで耽る。
「ナニ、いつまで生きてるものか」
 と云ふ風で、その崩れが多くそこらへしけ込む。それからであつたのだ。そのころ夜中に官軍が斬られた、浪士が殺られたと云ふのは大概右の悪所場の帰途などであつた様子で。しかもその衝突の激しかつたには、吉原土手、浅草広小路から上野山下辺、則ち官軍と彰義隊の落ち合ふ場所などが、特に血なまぐさかつたのだ。……

『歴史の教訓』p23
 不穏といえば、宇都宮はどうなったのでしょう? この日、流山で勇を連行した香川敬三らが宇都宮に到着しています。鳥取藩の『池田輝知家記』を見てみましょう。
宇都宮四方三四里の間、土民動揺して、ところどころに屯集し、屋を摧き、火を放ち乱暴至らざるところなし。宇都宮内外の患に困弊して、官軍の入城を促すこと頻りなり。四月七日、大監察香川敬三、薩藩有馬藤太ら、宇都宮に達す。これに依り、土民の人気少しく安穏。

『復古記』第十一冊p449
 民衆は少しく安穏になったとのことですが、かねて宇都宮藩領内に越境進入していた会津藩兵の動向は、宇都宮藩と東山道軍の双方にとって依然として脅威でした。


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