近藤勇・流山前後57 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

消息をたどる

 勝沼や流山で近藤勇に関わった人々が、処刑のときに何処で何をしていたか、その消息をたどってみましょう。
 まずは、勇を憎悪してやまなかった土佐藩士の谷干城についてです。その回想録である『東征私記』によると、処刑前日の二十四日には宇都宮へ向かう援軍として、すでに江戸から離れていたのでした。
全隊草加宿に一泊して、翌廿五日、越ヶ谷に到る。

『谷干城遺稿』上p109
 と、記されているので、二十五日の処刑には立ち会っていませんし、処刑の決定に関与したかどうかも怪しいところです。

 勇の拷問に強く反対した薩摩藩士の平田(九十郎)宗高は、忙しく立ち回っていました。その様子を『岩倉公実記』から見ておきましょう。
二十四日。具定、館林・忍の両城を以て礎陣となすべことを諸軍に令し、将さに板橋駅を発せんとす。薩摩藩平田九十郎、大総督府の命を承けて来り、具定に告げて曰く、賊勢猖獗、軽進すべからず。まづ江戸に入り大総督府の命を待つべし。これに於て具定・八千丸諸隊を率ゐ江戸因幡藩邸に入り、飯田・岩村二藩の兵に命じ各一小隊を忍城に進ましむ。

『岩倉公実記』中巻p424
 もとより宗高は処刑に反対する立場でしたから、もし、処刑に立ち会えるだけの時間的余裕があったとしても、あえて立ち会わなかったでしょう。

 同じく薩摩藩の伊地知正治はどうしていたかというと、宇都宮方面に出たままでした。大鳥脱走軍は余力を残して撤退していたので、宇都宮から凱旋できる状況ではなかったのです。

 流山での一件に関わった香川敬三はというと、宇都宮で敗退したあと、大損害を受けた彦根藩兵とともに鹿沼で部隊を再編していました。

 流山から勇を任意同行させた土佐藩士の上田楠次は、すでに述べたとおり、四月十七日に小山の戦いで負傷し、その翌日に死亡しています。

 楠次と同じく流山で斥候をつとめた薩摩藩士の有馬藤太は、四月二十三日の宇都宮城奪還の戦いで重傷を負い、壬生城に担ぎ込まれていました。

 こう見ていくと、勇の処刑は誰かが強く主張して決まったわけではなさそうです。また、その逆に、助命を強く訴えそうな人々も、みんな忙殺されていました。
 前にも述べたとおり、東山道軍の兵力は枯渇していました。勇が処刑された日、信濃飯山藩あたりに出現した旧幕府脱走軍=衝鋒隊に対処すべく、東山道軍は岩村高俊を信州松代へ派遣していますが、なんらの兵力も与えていないのです。
○総督府日記に云ふ。四月二十五日、岩村精一郎監軍となし、多田左市手附となし、信州松代へまかり越す。信州一国の諸藩を指揮し、賊兵を討たしむ。もっとも菊の御旗を奉じ候。越後より信州へ賊徒多人数討ち出し候故なり。

『復古記』第十一冊p547
 御覧のとおり、高俊に授けられたのは旗だけなのです。これで救援などとはいえませんから、東山道軍としては極めて不体裁ですが、無い袖は振れません。幸いにして現地では松代藩が、信濃に飛び領地を持っていた尾張藩を旗頭に担ぎ上げて周辺諸藩をまとめあげ、高俊の到着を待たずに衝鋒隊を撃退してしまいました。

 このとおり、東山道軍の兵力が払底してしまっていたことが、勇が始末されてしまった最大の理由ではないかと、私は思います。ただ、史料からは見えない理由もありそうです。
 そもそもが、薩摩藩士らが勇を生かしておくことを主張した理由は、徳川家との和平の条件をめぐる駆け引きを有利にするためでした。交渉に当たる西郷隆盛を側面から支援すべく、交渉相手である勝海舟や大久保一翁にとって都合の悪い生き証人として勇の身柄を抑えておこうとしたのではないかと思われます。勝沼の戦いによって宮様お二人の和平交渉を潰してしまった勇の罪は、誰から見ても死罪に相当するわけで、むしろ生かしておく方が無理筋でした。
 そんな無理を通してきた薩摩藩士らも、事態がここに至っては主張を貫けなかったでしょう。旧幕府陸軍の集団脱走と、いまだに実現していない軍艦引き渡しとが、もはや和平の意義を半分そいでしまっていたのです。駆け引きが暗礁に乗り上げたからには、無理を通しながら勇を生かしておく意味も失われてしまいました。もっとも、いったん言い出したからには、薩摩藩士らも勇を死なせれば面目を失うことになります。しかし、実利を失ったために注意力が衰えていたのだろうと推察できますし、また、状況からして勇の助命を訴えるだけの余裕はなかったでしょう。

 勇が勝沼で投じた一石の波紋は、はからずも大きな戦乱を招きました。そして、その波紋は大波になって戻ってきて、今度は勇を呑み込んだのです。



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