根源的受容可能性から世界の見方を学び直す ―「心身景一如」論のための覚書(五) | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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今回の論考の結論を述べる。

本論考で、私たちは、日本語の形容詞の客体的属性と主体的情意性という二重性を手がかりとして、心身景一如の表現例を日本語の古典詩文の中から取り上げ、それらを存在了解・世界受容・空間分節という三重の問題場面において分析した。

西行歌と万葉歌において、個々の和歌が表現している景のレベルを、『蜻蛉日記』において、情景描写を含んだ作品全体の色調を決める基層レベルを考察対象とした。それらの考察の結果として、私たちは、心身二元論的構図とはまったく異なった「間」を、〈心〉と〈身〉と〈景〉との「間」に見出すことができた。

今後、この心身景一如論を、「根源的受容(可能)性 Passibilité fondamentale et originaire」というより根本的な観点からもう一度考え直してみたいと私は考えている。主体的情意性か客体的属性かというすでに二元論的な二者択一的発想から出発するのではなく、すべての言語的分節化は「根源的受容(可能)性」から始まると考えるからである。その原初的次元においてこそ、すべての〈形〉と〈心〉とがそれぞれそれとしてそれ自身に最初に与えられるのであるとすれば、まるで情意のない〈形〉も、まるで姿形もない〈心〉というものも、そもそもそこでは在り得ない。客観的な対象と主観的な感情の分裂と乖離という構図は、この原初的次元における分節化後、その起源を忘却したがゆえに固定化された認識の枠組みに拠った、いわば二次的な思考の結果に過ぎないということになる。

そのような「哲学的」観点から日本の古典文学を読み直すとき、日本語の言葉の「間」の振る舞い方の中に、主客二元論的枠組みから解放された、初元の「こと(異・言・事)なり」の「間」を、私たちは再び見出すことができるだろう。