【寄稿】靖国神社批判について | 徹通塾・芝田晴彦のブログ

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民族自決 戦後体制打破
基地問題を考える愛国者連絡会 / 自由アジア連帯東京会議

靖国神社への批判は、根強く存在している。代表的な例は日本共産党の以下のような見解であろう。


 <天皇制政府と軍部は、天皇への「忠義」を尽くして戦死し「靖国の英霊」になることを最大の美徳として宣伝~靖国神社を、侵略戦争に国民全体を動員するための精神的な支柱として持ち上げました。(中略)また「英霊」としての合祀は、戦死者や遺族の意思に関わりなく行われます。戦争遂行や侵略戦争美化の“道具”として人の死を利用することは、戦争犠牲者を冒とくするものではないでしょうか。>

(2014年1月11日(土)「赤旗」)


私は、言論の自由の国に住むものとして、このような見解にも耳を傾け尊重したいと思う。日本は、あれだけの大戦争を遂行したのだから、問題は簡単にはなくならないと考えるべきだろう。


しかし、靖国神社の参拝者数は年間約600万人である。


この600万人が、<戦争遂行や侵略戦争美化>のイデオロギーに凝り固まった人たちばかりであろうか?




終戦記念日の8月15日には多くの参拝者があるが、それは数万~20万人である。終戦記念日ではない、普通の日に9割以上参拝しているのである。


私も、幾度も靖国神社に参拝をしているが、実は8月15日に参拝したのは昨年が初めてである。


靖国神社に参るく際には、勿論「英霊」という言葉への意識もあるが、ごく普通に神社に参拝するという感覚も大きいと思う。


明治神宮に行くように、或いは近所の神社、仕事で通りがかりの小さな神社に参拝するように、靖国にも参拝、というより「行っている」のである。


私は、これを「不敬」な事とは思わない。神社は靖国であろうと、小さな街角の神社であろうと神様であり、靖国の特別視は、逆に他の神社に不敬であろうと思う。


そして、さして意識を持たず、境内において気持ちが清涼になることを尊ぶ私の意識を、英霊の皆さまがお怒りになられるとは思えない。


少なくとも自分たちの「政治」利用のために、参拝する連中よりは好意を持って下さるのではないか。




さて、靖国批判の件にもどる。


昨年の終戦の日のツイッターには、

<終戦の日の軍装マニアや、日章旗を掲げた軍服姿の人たちを映し、それを拡散し、この神社は戦争賛美のイデオロギーに凝り固まっており、参拝者も異様な者たちであるという、印象を与える。>

というものが、いくつも見られた。


実際、私はそのあと8月15日に参拝したが、軍装マニアなど10人程度であり、周囲の人たちは冷ややかな目で見ていた、というのが実情であった。


8月15日の参拝者数数万人に対して10人である。何パーセントだというのだろうか。


私は別に、靖国反対に反対するために、このような事を申し上げているわけではないのだ。

「靖国反対は結構ですが、本質をキャッチしなければ<敵>は倒せないよ」ということなのである。


例えば、こんなツイッターもあった。「今日靖国に参拝しているのはファシストの加担者である。」というものだ。もちろん「靖国神社」だろうが、新宿歌舞伎町だろうが、なんばであろうが、「ファシストの加担者」はいるだろう。


しかしこのような言葉は、冷静に靖国参拝をしているものたちを、かすりもしないのである。


ある対象を粉砕するには、その対象を正確に理解しキャッチすべきであり、天皇制打倒ができなかったのは「コミンテルン32テーゼ」的な天皇制批判に偏りすぎていたのが一因だろう。


もし靖国神社を本気で粉砕したいのであれば、「神社というものが、国内に8万8000社もあり、日々参拝されている」という驚愕すべき現状に対しての考察から、はじめなければならないだろう。そうでなければ粉砕など出来るわけがない。




繰り返すがわたしは言論の自由の国に住む者として、あらゆる意見に耳を傾けていきたいと思う。


そして、神道人や靖国神社を崇敬する側にも、やはり謙虚な気持ちが必要だろうと思う。




以下は、葦津珍彦先生が敗戦間もない時期に書かれた文章の抜粋である。


(『神社新報』昭和二十一年九月二日第九号所収/葦津珍彦「靖國神社と平和の理想」より)

<今日、靖國神社、護國神社の祭祀に就いての論議再検討の声が起こっているといふことである。

靖國神社・護國神社の存在そのものが、軍国主義・侵略主義の残存を意味するのではないかと云ふ懸念もあるのであろう。

我々の所信によれば、その様な懸念が社会の一部にあるとすれば闡明(せんめい)すべき神社人の努力が不十分な為に生じた誤解に基づくのであろう。(中略)

我々神道人は、かくの如き誤解を清算するために十分の努力を払はなければならない。(中略)

勿論現在の靖國神社、護國神社の機構制度の中に、この種の誤解を生ずべき点があるとすれば、思ひ切った改廃も躊躇すべきではない。

現存の役員や職員等に誤解の原因があるとすれば、即時に交替すべきであろう。誤解の原因となるべきものは一切之を清掃すべきである。>


私は、靖国について語る時、葦津先生のこの言葉を常に心がけていたいと思う。
以上

(業平)