祈りの原型 | MAKAのブログ

祈りの原型

「祈る」という行動はどのように獲得され、習慣化されるのか。



「祈り」という言葉の定義


などの人間 を超える神格化されたものに対して、何かの実現を願うこと。(Wikipedia)

神仏に請い願うこと。(シソーラス)

心から願うこと。(goo辞典)



畑の作物を育てるためには水が必要だが、


畑に水を撒く行為は「努力」や「工夫」であり、


雨乞いは「祈り」である。



つまり、祈りをさらに詳細に再定義をするなら、


「"何かの実現"のために直接役に立たない行為によって、その実現を願うこと」となる。



さて、「祈り」は人間だけに見られる行為だろうか?


実は、動物にも「祈り」の原型を観察することができる。



日中働きに出ている人が犬を飼うと、


犬は飼い主の帰りを期待して待つ。



毎日の帰宅時間が決まっている場合、


犬は飼い主が帰宅するおおよその時間帯を、


日没の具合などの情報を基準にして覚えてしまう。




同時に、飼い主の帰宅時に高確率で伴う現象、


ドアの「ガチャっ」という音や、


鍵の「カチッ」と言う音、


玄関を照らす車の音


などを覚え、それを帰宅のサインとして認識する。




そして、およそ帰宅時間の30分~1時間前くらいになると、


玄関のほうに意識を集中し、


飼い主が玄関のドアを開ける音や、


車のライトが玄関を照らさないか、


今か今かと待つようになる。



「日が暮れる⇒車のライトや玄関の音がする⇒飼い主が見える⇒吼える」



そういった一連の流れが定着してしばらくすると、


犬の行動は徐々に前倒しになっていく。



これまでは、ドアが開き、飼い主が確実に来たと分かった時点で、


ワンワンと吼えていたのが、



家の前の道路を車が通ったり、


近所の人の歩いている音がしただけで、


ワンワン吼えるようになる。


そのうち、どんなちょっとした物音にでも吼えるようになっていき、


最後には何もなくても吼え続けるようになる。



なぜこのような現象が起こるのか?


「飼い主に帰ってきてもらいたい」という強い欲求と、


「自分には何もできない」事実


自分の力でそれを引き起こせると思いたい」という欲求



という3つの要因が重なると、


因果関係の図式は、本人の認識において捻じ曲げられることがある。




すなわち、


「日が暮れる⇒車のライトや玄関の音がする⇒飼い主が見える⇒吼える」

という順序が続くうちに予想が育って「吼える」が前倒しになり、


「日が暮れる⇒車のライトや玄関の音がする⇒吼える⇒飼い主が見える」となり、


それが続くうちに、自分の力を介在させたと思いたくなり、


現実ではなく、認識のほうをいじくり、「吼える⇒飼い主が見える」


の部分の解釈を都合よく捻じ曲げて、自分の力だと認識しはじめ、


「日が暮れる⇒吼える⇒(何十回かやっているうちに)車のライトや玄関の音がする⇒飼い主が見える


という行動を引き起こすことになる。



実際には、吼えるという行動は、飼い主の帰宅時間にはなんらの影響を及ぼしていないが、


本人(犬)は、自分が吼えたことによって実現したと思っている。



これが、「祈り」が形成される順序であり、原型である。




人間の祈りについてもこれが当てはまる。


多くの人にも、幼い頃に様々なおまじないをした経験があるだろう。


おまじないを十回やって1回でも上手くいくと、


その一回が強烈に印象に残り、(どうにもできないものをどうにかしたいという欲求が要因)


その行動を繰り返すのだ。



あるいは、パチンコ屋で演出が発生する度に台やボタンを叩いている人や、


スロットのボタンをねじっている人もそれだ。


大当たりは本人の意思では引き起こせないが、


本人にはどうにもできないのに、大当たりが欲しい。


でも、自分でそれを引き起こしたい。


そういった素地が、台やボタンを叩いたり、ボタンをねじる行動として現れる。


10回に一回でも当たれば、それが癖になり、

「やっぱりこれは効くな!」と思い込みを強化していくのだ。



このように祈りという行動の本質を見ると、


それは人間特有の行為ではなく、


動物にも見られる欲求行動なのだということがわかる。



そして、祈りが形成される素地として、


「願う事象に対して能力が釣り合っていない」


学習 より認識を捻じ曲げて楽になろうという怠惰さ」


という共通点が見て取れる。



このように、「祈りは尊いもの」などという、


世間に広められた綺麗なイメージとは逆に、


動物にも普遍的に見られるような、無能と怠惰の


結晶と換言してよい行為であり、




なぜそのような価値観が普及したのかを考えるに、


宗教を利用した人民支配がされてきた歴史の中で、


人工的な「神」に祈らせることで、人を盲目にさせ、


神を名を語る権力者の思い通りにコントロールする


ための手法として広まったものであると、容易に考え付く。



シスターや少女が平和を祈っているような、美しいイメージも、


祈りの「中身」が尊いのであって、


祈る行為自体が尊いのではない。




どうすれば平和になるのか?


どうすれば願いを実現できるのか?



現象を観察し、知恵を絞り、自己を省み、


限界までやり遂げようとする姿勢こそが、


人間に備わった力をフル活用することであり、


本分を全うすることであり、


それは「祈り」とは対極にあるということを、確認しておきたい。