暦の上では立冬、もう11月。街なかのデパートやドーナツ屋は気の早いクリスマス商戦に突入している。この記事ではそれにならって(?)クリスマスに関係する話を書こうと思う。


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クリスマスで想起されるテーマと言えば「神様」。つまりこの記事で、
「神は存在するのか(神様はいるのか)」
「神が存在するならばそれは何か(神様とは何か)」

というかなり難しい問いに対して、私見にのっとって答を出そうと思う。ここで言う「神」は、ある人にとってはキリスト教の神であり、別のある人にとっては仏教の仏だったりするから、広い意味での「神」である。

ただし、
「『存在』とは何か」
という問いに対して科学的に論じないことにする。現代科学(現代物理学、量子論、量子力学)において、
「『存在する』とは『知覚される(=機器などを通して観測される)』ことである」(観測問題、コペンハーゲン解釈を参照されたい)
しかし日常感覚として、
「『知覚・観測されない』からと言って『存在しない』ことにはならない」
から、
「神は『知覚・観測されない』が、科学の枠組みの外に『存在』する」(デカルトの二元論)
だけのことである(可知論・不可知論を参照されたい)。科学の枠組みの外をカバーするために哲学、宗教学その他の学問がある。それゆえこの記事は科学というより哲学的なお話である。



話を戻して「神の存在」について述べる。嘆きの言葉として、
「神も仏もあるものか」
と言い、神を否定することはよくある。もちろんこれは、
「不幸・不運な境遇にある人から、あるいはその境遇にある時に」
「人生を自分の思い通りにできない人から、あるいは思い通りにならない時に」
発せられる言葉である。そのような人にとって、神のいない人生はどういう意義があるのだろうか。生きるとはどういうことだろうか。

ここで中国の故事の一つが思い起こされる。
「一炊の夢」(または「邯鄲の夢」)
である。物語のあらすじは次のようなものである。


昔、都から遠く離れた村に生まれた青年が立身出世を望んで都を目指していた。途中、邯鄲という山奥の一軒家に宿を取り、その後、都にたどり着く。青年の聡明さと努力もあり科挙(官僚登用試験)に合格。青年は役人となり出世を遂げる。時は流れ、年老いた彼は死の床で、
「ああ、自分の人生は幸福・幸運だった。」
「人生の何もかも自分の思い通りになった。」
と満足して息絶える。

しかし、である。ふと気がつくと自分は邯鄲の一軒家にいて、かまどにかけて炊いていた鍋がひと煮えしてコトコト鳴った時だった。つまりは、都での立身出世も、幸福な人生も、すべて短い眠りの中で見た、
「一炊の夢」
だったのである。そのことを知った青年は、
「人生ははかない夢と何の違いがあろうか。そんな人生をがむしゃらに立身出世に投じることにどれほどの意味があろうか。」
と思い直し、自分の村へと引き返したのだった。


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この物語を読んで、読者諸氏はどのような感想を抱くだろうか。青年と同じ考えに至るかも知れないが、私は別の角度からこの物語を読んだ。その結論は次のようなものである:
「夢であれば、何不自由なく自分の思い通りの人生を送ることができる」
逆に言えば(論理学で言う対偶を取れば)、
「思い通りにならない他者・境遇があるからこそ、真の(夢でない)人生と言える」
あるいは、
「自分の意思ではどうにもならないからこそ、言いかえれば、助けてくれる『神様はいない』からこそ、本当の意味で生きていると言える」

この結論は、一見、極めて悲観的に聞こえるが、全面的に「神は存在しない」ことの証明ではない。不遇な人にとっては「神様がいない」ということである。そしてもっと大切なことに、
「不遇な人生でも生きる意味がある」
「永遠の眠りに着いてしまえば、自由にならない人生さえ送れないのだ」

ということを、「一炊の夢」は逆説的に教えてくれるのである。


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一方、「神様はいる」という人は幸福・幸運な人であり、「神の存在」を信じるのは幸福・幸運に身を浴している時である。自分に舞い降りた幸福・幸運を感謝する対象として「神は存在する」。もっと言えば、人は幸福・幸運を有難いと思い、結局のところ、
「幸福・幸運そのものが神である」
少し気取った言い方をすれば、
「神とは(自分にとって望ましいことが起こるという)偶然である」
宝くじに限らず、幸運とはある確率で起こる偶然であり、人はその偶然に感謝する。また、「幸福は自分でつかむもの」とは言うものの、実際の人生では自分の力ではいかんともしがたい偶然の要素が働き、その結果として幸福が訪れる。したがって幸福・幸運という偶然が訪れた人にとって、あるいはその時、偶然を感謝する対象として「神は存在する」。


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以上でこの記事のテーマに答が出たと思う。つまり、「神とは何か」と言えば、
「神とは感謝すべき偶然」
であり、「神はいるのか」と問えば、
「幸福な人・時に神はいる」
「幸福でない人・時に神はいない」

と答えることができる。しかし、また、
「幸福でない人でも、幸福でない時でも、生きる意味がある」
と言えるのである。



なーんてね。(*^ ・^)ノ⌒☆


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