パリの事件で思ったこと | いまのしゅんかん
2015-01-10 16:00:53

パリの事件で思ったこと

テーマ:国際テーマ

なんだかんだ、2つのアプリケーションで忙殺された今週。2つとも共同研究パートナーが決まってなく、アプライさえできるのかもまだわからない状態で、とても神経を消耗させられる1週間だった。

そんなときの、パリで起きたシャルリー・エブド社での銃乱射事件。昨日容疑者3人が射殺されたことで一応おさまりはしたらしいが、いろんなところで飛び火が起きているらしい。

基本的には武力を放棄し、どの宗教にも寛容で、世界一安全と言われている日本でさえ、オウム真理教の地下鉄毒ガス事件とか起きたりするから、何をしてもテロというのを防ぐことは不可能なのかもしれない。中にはわけわからない理由で、何の関係もない第三者にナイフを向けるような狂っているひともいるし。悲しい現実ではあるが。

  

でも、デンマークでも8年前に風刺画騒動が起きているので、いろいろ考えさせられた。

テロに関することよりも、わたしが住む、たぶん世界の中でもっとも人権が保障されている国のひとつであろうデンマークという社会について考えたというか。

奇しくも、今回の事件が起きた水曜日、友達と一緒に「大地の子」を観て、文化大革命で知識人は次々と処罰され、結局は国民の自由が奪われていった中国の現実をみただけに。もともとは平等な社会を目指したはずの共産主義国家って一体なんだろうかと。デンマークは社会福祉が充実した「大きな政府」の社会主義国家で、経済的に比較的平等な社会ではあるが、民主主義がいきわたっていて個々の自由が守られている。

 

8年前は、まだまだ日本人的考えで、わざわざムスリムのことをネタに風刺画画家78人だかで特集組むのも意地悪な挑発的な企画だな、と思ってたけれど、デンマークに住んで今年で12年になる今となっては、デンマーク人が意地となっても権力に対する嫌悪感を露にすることはだいぶ理解できるようになっている。

もちろん、「表現の自由」を守ることも大事なのだけど、それ以上に人権に対してよりセンシティブな気がする。

例えば、わたしたち外国人にはクリティカルな「24歳ルール」。これは、わたしが聞いたデンマーク人のほぼ全員が、「リーズナブルなルール」と言う。彼らからすると、若くして親が決めた相手と結婚させられることは「許されない」ことなのである。なので、より外国人に寛容なラディケーレが政権に入っても、このルールは廃止されることはなかった。

わたしも、意外と人権に対して無頓着だったことを認識し、葛藤しながらもデンマーク社会の洗礼を受けてきた。ゴミが3週間回収されなかったり、学校が1か月閉まったり、プロジェクトリーダーが突然辞めたり(しかも2度も)、まぁいろいろあったけれど、自分の自由があるように相手の自由を認めることの大切さを学んだ。

 

なので、今回のことでもんもんと考えていたわけなのだが、、、

FBで小学校時代の幼馴染がわたしの考えていたことをぴったりそのまま書いており、彼女にメッセージを送った。

 

彼女の投稿を全部引用したいのだけど、長いので一部引用すると、、

「(中略)

いろんな人たちや国々が異なる時間軸の中で存在していて、いろんな経験をそれぞれの形でしながら学んでいる場がこの地球です。だからこそ、お互いのその学びの過程を邪魔せずに、干渉し過ぎずに見守り合う寛容さや優しさが必要とされているのではないかな、、

と思うのですが、ともするとそれこそ自分たちの価値観こそ絶対だという人たち同士での押し付け合い、いがみ合い、傷つけ合いになっているのが今の世の中だな~と。アメリカが世界でやっていることも然り。

(中略)

結局は、個々人の人間性が成熟していないと、その集合体である国家も宗教も成熟しないのだろうと思います。日本のダメな政治を見てもいつもそう思います。人のふりを見て我がふり直せ、ではないですが、こうした出来事が起こっているのを目の当たりにするとき、よそ事、他人事と思って見てないで、皆が自分の内側を見つめるキッカケにしないと。。

あらゆる宗教の根本は「愛」でしかないのにな、、と、宗教が原因で起こる不幸なことごとを残念に思う今日この頃です。いろんな意味で、本当に難しい問題ですね。。。

いずれにしても、自分の自由を認めるのと同じように他人の自由も認め合うことを、きちんと理解し合える社会にしていかないと、平和は程遠いですね。。

(中略)」

 

彼女に、わたしも戦争は他人事だったけれど、離婚して自分を省みるために聖書を読んで自分のエゴを自覚するようになり、争いごとは案外こういう小さなエゴが種になるのかと思うようになった、原因を夫の問題にしていたけれど実はわたしは夫に自分の価値観を押し付けていたことが原因だった、というようなことを書いた。

そしたら、彼女から、一番言わんとしていることを理解してくれてどうもありがとう、という返事がきた。

 

実は昨日、あまりにもストレスフルな1週間だったのであるひとを誘って飲みにいったのだが、最初は楽しくいろんな話をしていたのに、だんだんパーソナルな話に踏み込んできて嫌な予感がし、今は自分を省みるために聖書の会に参加したりしているけれどシングルライフが楽しく恋愛にはあまり興味がない、と言うと、なんでまだ若いのに聖書なんか読むのか、今はもっと恋愛に対してオープンになるべきではと昏々と諭され、なんだかうんざりし、食事をすませてから嵐がきていることを理由に退散させてもらった。

わたしがなぜ聖書を読むのかきもちも理解しようとせずに、自分のくどきたいというエゴをつきつけてくることにうんざりした。別れてからすぐにSMSがきて、一応大人の対応でお礼の返事を書いたが、そのあと3通連続のSMSにはスルーさせてもらった。相手を責めたくはない。しかし、共感もなしに一方的に自分の考えをぶつけてくるのははっきりいって不快である。

誰にも嫌なきもちをもちたくない。でも、難しい。