来談者を理解するのは「良心」(“conscience”) の働き | あ~どうしたものか

あ~どうしたものか

社会問題=PTSD現象。

“郷土なくして人生なし”
ということで[複合汚染]時代をサバイバル、平穏死を子々孫々繋いで生きましょう。

拙ブログ記事
『PTSDは「病気」であり、治癒する。』
http://ameblo.jp/aya-quae/entry-12072309987.html
にコメレスしたので記録。

>minaminosorakaraさん

何と申し上げて良いか?…と思ううち、
お返事が遅くなり、失礼いたしました。

PTSDは、野口整体の流れを汲む捉え方で普通に「病気」であり、
「自分の力で病気の経過を
スムーズにまっとうさせ、
その病気を踏み台に
より元気な心身を創りだす」
http://www.ac.auone-net.jp/~youhaku/
というプロセスですね。

意識や知=“conscience”(英語)=“conscientia”(ラテン語)の及ぶ領域は、
“cōns-”+“science”、すなわち、
『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』の
「科学(science)」=「知」の光を照らして対処できる領域を指し、
本人が本人の「知」の光に照らして対処できない領域が、その人の「心の闇」とも言えますね。

註)“science” ← ラテン語 “scientia” ← “scīre”(知る)の現在分詞の語幹 scient
つまり“science”は「知るプロセス」

本人が本人の「知」の光に照らして対処できない「心の闇」に囚われた状態
=「トラウマ」が暴れた状態
=「解離」状態
ですから、集団ヒステリーで戦争や虐殺、私刑(リンチ)をやってしまうのは、まさしく集合的無意識に埋め込まれたトラウマが暴れて起きる解離現象ですし、人類は、魔女狩りと魔女裁判と処刑を繰り返し行なってきました。

しかし、カトリック教会は、もう魔女狩りと魔女裁判と処刑をやりません。
caritas=“the principle of charity”
をいかなる場合にも原理として、諸宗教の人々、無神論者とも対話することに決めた第二バチカン公会議が1960年に準備をスタートしました。

要するに、後になって思えば、あのときから、PTSDは、
「自分の力で病気の経過を
スムーズにまっとうさせ、
その病気を踏み台に
より元気な心身を創りだす」
普通に「病気」のプロセスになったのです。

井上達夫のいう「共生の作法」としての対話を
誰に対しても
“the principle of charity”をベースにして
拒否しないことが「人類滅亡」を避ける「正義」ということです。





皆さまも、お大事に。


カール・セーガン 科学と悪霊を語る/新潮社

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