◆アーバン・ブルーズ・ハート44 | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<悔い無(な)き人生>>


ミュージシャンは

ご多分に漏れず

健康管理は大切かと

思われます。



「そうですネ。

でも、それはミュージシャンに

限るコトではないかと

思いますヨ。」(笑)



「ひよっとして・・・。

その今のフリは

今回ご紹介のブルーズ・マンに

ついてでしょうか?」



そうです。

彼の場合は心臓病を

患(わずら)って

いました。



(彼の場合は心臓病を患(わずら)っていました。)




「過去にもお酒に毒されて

身を落としていった方たちも

いましたし、


脳卒中でダメージを受けて

そのままお亡くなりになったり、



などなど悪い方向に

向かう傾向が


かなりの確率であったモノですから・・・。



心臓病とお聞きしますと、

いかにもという印象ですね。」



(心臓病とお聞きしますと、いかにもという印象ですね。)



彼に関しては

そう斜(しゃ)に構(かま)えた

感じではありません。




ただ・・・。




「ただ・・・。何でしょうか?」




その心臓病のおかげで、

戦地(第二次世界大戦)の任務から

遠ざかるコトになります。



「任務から遠ざかって、

それで彼は何をしたのですか?」




バンドを編成しました。

そして、そのバンドは

1940年代をフルに活躍します。



(バンドを編成しました。そして、そのバンドは
1940年代をフルに活躍します。)




「それは良かったですネ!」



「怪我の功名っていう

トコロでしょうか?」




しかし50年になり、

心臓病がモトで亡くなりました。

その時、彼は44歳でした。



「持病を抱(かか)えつつも

音楽に専念し尽くした、


悔い無き人生を

送っていらっしゃったのでは

ないでしょうか?」




<<ジョー・マッコイ登場!>>


今日ご紹介するブルーズ・マンは

ジョー・マッコイです。




(今日ご紹介するブルーズ・マンは
ジョー・マッコイです。)




1930年代のシカゴという

新しい都市環境に

より快適にフィットするように、


カントリー・ブルース・サウンドを

近代化したといわれています。


彼の雄弁さ、独創性あるギター・ワーク、

そして深みのあるヴォーカルは

彼をスターダムにまで引き上げたそうです。



「なるほど、

カントリー・ブルーズ独特の

荒削りなところがなく、


都会的な香り漂う雰囲気が

しますね。」





でも彼はサイドマン(伴奏)役を

好んでいたようです。


彼と弟のチャリーはブルース史で

最も偉大なサイドマンたちの間で

レスペクトされているそうです。


☆Kansas Joe McCoy - Pile Driver Blues♪

☆When the levee breaks♪

☆KANSAS JOE McCOY ~ Well, Well♪



☆ジョー・マッコイ

Kansas JOE MCCOY

本名:ウィルバー・マッコイ

(1905年5月11日- 1950年1月28日)


アメリカ合衆国ミシシッピー州レイモンド生まれ。

アメリカン・ デルタ・ブルース ミュージシャンと

シンガーソングライター。



変名が多くカンザス・ジョー、ハレルヤ・ジョー、

マッド・ドーバー・ジョー、ビッグ・ジョー、


ビル・ウィルバー、ジョージア・パイン・ボーイ、

ミシシッピー・マダー、ハムファット・ハム

などの名前で多くのレーベルに吹き込みを行なっている。




マッコイはいろいろな芸名の下で音楽を演奏したが、

「カンザス・ジョー・マッコイ」として最も有名。


ミシシッピ州レイモンドで生まれて、

彼はブルース伴奏者パパ・チャーリー・マッコイの

兄だった。



青年時代、マッコイはテネシー州メンフィスの

音楽シーンに惹きつけられた。

1920年代彼はそこでギターを演奏して、歌を歌った。



彼は20歳の時に彼はすぐに

ビールストリート・ジャグ・バンドに参加し、

メンフィスに移動した。



彼は将来の妻、リジー・ダグラスに協力をした。

彼女はメンフィス・ミニーとしてよく知られた

ギターリストだった。



(メンフィス・ミニーとマッコイ)



そして彼らの1929年コロンビア・レーベルでの

録音された "Bumble Bee"はヒットした。



1930年に彼らは成長するブルーズ・シーンの

重要な部分であったシカゴに移った。



彼らは離婚した後、マッコイは兄弟と協力して

the Harlem Hamfatsとして知られているバンドを

つくった。

バンドは1930年代後半の間レコーディングや活動した。



1936年the Harlem Hamfatsは "The Weed Smoker's Dream"

を録音、リリースした。



彼は後に曲に磨きをかけて、歌詞を変えて、

リル・グリーンのために新曲"Why Don't You Do Right?"

とタイトルをつけた。

それは1941年に録音された。



それは1年後にベニー・グッドマンとペギー・リー

よってカバーされた。

そして、リーの最初のヒット・シングルになった。



(ベニー・グッドマンとペギー・リー)




 "Why Don't You Do Right?"はジャズのスタンダード

のひとつとして残り、そのほとんどがマッコイによる

構成だった。



第二次世界大戦の勃発で、チャーリー・マッコイは軍隊に

入隊した、しかし、心臓病は任務からジョー・マッコイを

遠ざけた。



彼はひとりで 'Big Joe and his Rhythm'

として知られるバンドを作った。



バンドは1940年代のほとんどを通して

彼と一緒に活躍した。



バンドは兄弟のチャーリーのマンドリンそして

ロバート・ナイトホークのハーモニカ再び加えた。




1950年、44才で、彼の兄弟チャーリーのわずか2、3ヵ月前に、

マッコイはシカゴで心臓病で亡くなった。



彼ら両方は、イリノイ州アルスピの

レストバレー墓地に葬られた。




レッドツェッペリン・ヴォーカリストの

ロバート・プラントは彼とメンフィス・ミニーの

録音した"When the Levee Breaks"を採用した。



(レッドツェッペリン"When the Levee Breaks")




そして、それは彼の個人のコレクションの中にあって、

それをギタリストのジミー・ペイジに提案した。



そして、ジミーはそれに手を加えて、

叙情詩的にわずかにそれを変えて、

レッドツェッペリンの1971年のアルバム

(レッドツェッペリンIV)でそれの録音を手伝った。



前述したものに加えて、マッコイの曲はまた

ボブ・ディラン 、 ジョン・メレンキャンプ 、
 

(ジョン・メレンキャンプ)


インク・スポッツ 、 エラ・フィッツジェラルド 、



(インク・スポッツ)



ジョー・アン・ケリー 、 クレオ・レーンそして


(ジョー・アン・ケリー)



(クレオ・レーン)




パーフェクト・サークルにカヴァーされている。



(パーフェクト・サークル)


 
           (ウィキペディアより抜粋)

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