A Love Supreme… | アンダーカレント ~高良俊礼のブログ

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短歌、音楽、日々のあれこれについて。。。

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7月17日はジョン・コルトレーンの命日なので、長袖シャツの下にこの戦闘服(トレーンTシャツ)を着込んで仕事に励もうと思う。


「Tシャツは内側に心意気として着込むもので、他人に見せびらかすものじゃない」


というのが自分のポリシーである。


もし、敵に討たれたとする。

そして仮にシャツを脱がされるようなことになれば、敵が「あぁ、コイツはこんな心意気で戦っておったんだな…」と、思えるようなものを、いつも着込んでいたい。


Tシャツを露出して外をうろつくことも、敵に討たれるようなことも多分ないだろうが(笑)半分は本気である。


自分は両親がジャズ好きで、物心付いた時には家にジャズのレコードがたくさんあって、時々、我が家には「明らかにカタギじゃない変なおじちゃん達(親父が島に呼んだジャズマン達)」がいきなり押し掛けてきて夜通し宴会をして嵐のように去って行くこともたまにあったが、ジャズは何だろう「生活音」の一部として、余りにも当たり前過ぎて「音楽」として意識したことは、実家住まいの時はなかった。

ただ「おっちゃん達が聴く意味のわからん音楽」ぐらいの認識しかなく、小学生の頃はチェッカーズとか一風堂とか中森明菜とかを「音楽」として聴いていた。


その最後の方にブルーハーツが「ガツーン!」ときて、十代の頃はパンク、メタル、ハードコア、それの影響でブルースやカントリーを偏聴してたぐらい。


東京のレコード屋でバイトしてた時、初めてジャズに「ガツーン!」とヤラれた。

買い取り品の盤質チェックのため、店のターンテーブルに乗っかって回ってたのは、確かコルトレーンの「ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン」だったと思う。


コルトレーンが死ぬ前の、もう完全にフリー・ジャズになった頃の演奏で、曲はグチャグチャ、リズムはバラバラ(と、その頃は思っていた)なのに、その演奏からバンバン涌き出てくる強烈なパワーと「ウワー!!」って叫ぶサックスの音に乗っかってる情念の質量が半端なかった。

そういうものを言い表す言葉は「パンク」しか知らない(今もだ・笑)。

先輩に「コレ、なんすか?すげーパンクっすね!」と訊いたら、お前こんなことも知らないのかみたいな顔で

「コルトレーンだよ」

と言われた。


コルトレーン、あぁ、確か親父が何枚か持ってた。でも親父聴いてたのはこんなハチャメチャじゃなくて、もっとスーっとしたのだった…、かも…。


後で判ったことだが、親父とその仲間達は「ダンモ(モダン・ジャズ)」派、とりわけファンキーなヤツが好きで、フリーになってからのコルトレーンは、正直あんまよくわからんから持ってなかったらしい。


しかし、私の心を“パンクに捉えて放さなかった”のはフリー・ジャズのハチャメチャなコルトレーンだった。


その体験から一気にジャズに開眼して、エリック・ドルフィーに決定的な衝撃を受け、以来自分はジャズファンである。


その恩義あるコルトレーンは、やはり特別に扱わなきゃいかん。


CD屋稼業の自分に出来ることは「ジャズファンでも何でもなかった俺にジャズのカッコ良さを最初に教えてくれたコルトレーンを、一人でも多くの人に聴いてもらうこと」である。


という訳で毎年命日の7月17日から夏が終わるまで「大コルトレーン祭」と称して、ジャズコーナーに、広々と誰が見てもすぐに分かるようにコルトレーンのCDを並べ「1日に1回はコルトレーンのアルバムを丸々1枚流し“売れ線試聴機”にしれっとコルトレーンのアルバムを混ぜてやる」という、ほとんどテロのようなことをやっていた。


どーせ売れんだろう


と、半ばヤケクソではあったが、コルトレーンのCD、意外によく売れた。

しかも買っていくのはジャズファンでも何でもない、トランスやサイケなどが好きな若い人達である。


彼らは私よか全然感性が鋭いので

「いや、この音楽はピースフルですよ」


「激しくて重たいけど、とても優しく感じるっすね。やっぱ生音だからっすかね?」


と、試聴で本質をバンバン突いてくる。これには驚いた。


そう、平和。


コルトレーンが出したアルバムに「至上の愛」というアルバムがある。

彼の代表作とも云われ、また「コルトレーンがモダンジャズを超えて精神的な深淵に向かって進み出すきっかけになった1枚」とも言われている。



最初自分は「至上の愛」って何てキザなタイトルなんだ、と思ったが、川越の中古レコード屋でこれを買って、針を落として出てきたサウンドにおったまげた。


邦題を勝手読みしてイメージしてた「甘いラブソング」なんかカケラもやってない。どころかこのやたらめったら深くて重くてハードボイルドな音楽は一体何なんだ、と。


そう、平和。



至上の愛、原題は「A Love Supreme」これ直訳すると「創造主の愛」となるんだそうだ。


日本人には「創造主」と言われてもあんまりピンとこんが、要するに「この世界の全てを生み出した神のよーな存在」を、コルトレーンは意識して、それを讃えつつ祈りを捧げる音楽を作りたかったのだ。


それは宗教的なアレではなく、黒人公民権運動だとか、ベトナム戦争だとか、文明が発達したことによって出てきた環境の問題だとか、社会の経済が成熟してきたことで広がった「金持ちとそうでない奴」とのどうしようもない格差だとか、そういった1960年代の社会情勢の深刻な問題をコルトレーンなりに真剣に考えて悩みに悩んで


「あぁ、俺はこの世界が平和で豊かなものであるように、音楽で祈りたい」


と、ひとつ決断して、観客をスウィングさせてゴキゲンにさせる“ジャズ”から、もっと荘厳で深淵な世界を音楽で提示することで、世界の人々の意識を変えたい。


そう願っていたんだ、と。



自分はあまり賢くはない。だから難しいことはよくわからんが、音楽も文学も、作者の「心意気」みたいな部分を聴いたり読んだりして感動するもんだと思っている。


よくよく考えたらコルトレーン、ブルーハーツ、ジョー・ストラマー先輩、エリック・ドルフィー、宇宙神農サン・ラー、レッドベリー、ハウリン・ウルフ、高柳昌行師、ボブ・ディラン、ジョニー・キャッシュ兄貴、キャプテン・ビーフハート、浅川マキ、チャック・ベリー、阿部薫、ピアソラ、バッハ、俺達のジェイムス・ブラウン、ニルヴァーナ、ジャニス、ビリー・ホリディ、あぶらだこ、デッド・ケネディーズ、友川かずき、アルバート・アイラー、アマリア・ロドリゲス…あぁ、挙げるとキリがないが、とにかく「これはパンク(=カッコイイ)」 と思った音楽は、曲がどうの演奏がどうのの前に、何かしらの言葉には上手く表せない“粋”みたいのを持っていて、自分はそれに反応してるような気がする。

で、コルトレーンの“粋”はやっぱり「A Love Supreme」この一言に凝縮されてるんじゃなかろうかと思う。


この言葉、自分は勝手に
「愛と平和が、音楽の神の恩恵が、あなたや私と共にあらんことを」


と、意訳している。


そう平和。


今のところ人間は、コルトレーンからしたら「未来の人ら」は、彼が真剣に祈った方向には進んでいない。むしろどんどんハイテクで豊かさが加速しているこの数十年の間に、自分らは本来人間が持っているはずの素朴でピュアな感性からどんどん遠ざかっているような気がする。

「昔はよかった」なんて辛気臭い言葉は好かんが、例えば巷に流れている(いや「流されている」と言うべきか)音楽ひとつ取っても、どうも「うわぁ~、すげぇいいもん聴いたぞ~、やべ~、誰かに自慢したいぞ~」というのとは、残念ながらちょいと違うものばかり耳に付く。


世の中の動きも、やっぱり「穏やか」とは言えない。


ここ数日の国会とかのシャバダバを見て、言いたいことは山ほどあるが、自分にはそれを言って人様に「なるほど、アンタの言うことは筋が通ってる」と言えるほどの「勉強」と「洞察」が、悔しいけどまだまだ足りん。

が、ひとつだけ言いたいことは「右に左に流されて騒ぐ世間」というものには、決定的に豊かさが欠乏している。そして“粋”もだ。


私はそんな世間に「A Love Supreme」と、言い続けたい。


CD屋としては地下に潜らざるを得なくなった今ではあるが、コルトレーンの“粋”は、少しでも分かりやすい文章で、サウンズパルのブログにせっせと書いていきたい。


もちろんこんな綺麗事、ディス・イズ・正論で多数の人々の意識が劇的に変わるなんて思ってちゃいないが、音楽や素晴らしい芸術の“粋”を深く知る人は、強く美しい理性を意気込みとして、そして誰も傷つけない武器をそれとして、世界と戦える人だとも信じている。

そう、平和。



-A Love Supreme.


この言葉と、ギタリスト高柳昌行師の「反戦思想は空騒ぎや思い上がりやお祭りではなく、個の中に沈潜し、日常生活に表出される」という言葉を刻んで私は、あくまで個として日常を戦う。


コルトレーン者として。一個の“粋”を目指すはしくれの一人として、私は戦争や弱いものいじめや、無知という暴力と地味に戦う。未熟な思想は人に押し付けまいよ。コルトレーンの意志は勝手に継ぐんだい。そう、平和。

他国にいちゃもん付けてはその国の民間人も自国の若者も万単位で殺す国をいいように操るカネの亡者達のエゴい思惑も、ヘイトスピーチもプラカードもシュプレヒコールもない、美しく深い音楽や歌や文学や絵画などへのピュアな感動に満ち溢れた生活ををウチらの手に取り戻すため、自分はコルトレーンのTシャツを着込み、会社の車でコルトレーンガンガン鳴らしながら、営業先でお客さんに誠実に接して、ミスをしたら頭を下げて、額に汗して荷物を運んで、街で友達と会ったら「おぉ、元気かい?」「いつもありがとうね」と声をかけ、サウンズパルのブログに「コルトレーンはカッコイイぜ」ということをアツく書き、家に帰ったら嫁さんと会話して、短歌を読んで、または読んでいく。これが私の「平和」です。



A Love Supreme

A Love Supreme


A Love Supreme

A Love Supreme


A Love Supreme

A Love Supreme…




本当の「平和」が、好きな人にもいけすかない奴の心にも平等に、そして永遠に共にあらんことを!