主流派経済学はなぜ消費税増税を解として導くのか | 批判的頭脳

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消費税増税の妥当性についての一連の検討というセルフまとめtogetterとほぼ同じ趣旨のものになるのだが、改めてまとめておきたい。

昨今、スティグリッツやクルーグマンが国際金融経済分析会合に招かれるにあたり、スティグリッツが消費税増税延期を提唱するなどして、税制や財政政策に再び注目が集まっている。

この中で、土井丈朗や小黒一正に代表されるような国内の財政学者や、池田信夫などが対抗するように消費税増税の必要性を喧伝している。

5→8%消費税増税が「経済学者・エコノミストの」想定以上の影響を与えた中で、なぜいまだに消費税増税が追求されるのか、そのロジックの具体的にどこが破たんしているのか、について検討したい。というのも、増税派を論難する向きは、しばしば「野菜学者」「八百朗」「暖冬経済」などと揶揄する傾向にあり、あまり建設的なものとは言い難いからだ。


さて、以前書いた大学の経済学講義で見る「財政学」の罪の議論も踏まえつつ、消費税増税を肯定する論理を検討していこう。



まず、いの一番にして最大の前提―――そして論理的な誤りの根本――は、政府債務に横断性条件が成り立つべきだと想定していることだ。

横断性条件とは何だろうか。黒木玄の「代表的経済主体は資産としての貨幣保有を無駄に残さない」という説明が一番簡潔だと思う。
黒木は貨幣保有に関して述べているが、債券・債務についても同様である。
消費と貯蓄のバランスというのは、言い換えれば現在消費と将来消費の選択である。(消費のオイラー方程式)
合理的個人は、ライフサイクルを通じて、すべての所得はいつかすべて消費に回すことが合理的であり、それを現在に行うか、将来に行うかを選択しているに過ぎない。
だから、合理的個人は、貨幣や資産を無限遠点や終末期に残存させない
したがって実質貨幣残高(貨幣残高/物価水準)及び資産残高は、無限遠点ではゼロに収束すべき、ということになる。
これは裏を返せば、政府債務もゼロに収束すべきと言っているのと同じことになる。

ところが、この仮定は現実的ではない。
まず、この理論はすべての人が全く同じライフサイクルを描いているという仮定に依存している。代表的個人モデルと呼ばれるもので、マクロ経済学を無限の寿命を持つ個人の選択で描写するものだ。
実際には、人々のライフサイクルは時系列的にずれている。当たり前だが、この世界には老若の差がある。
「所得はすべて消費される」というライフサイクルが全員に受け入れられたとしても、有限の寿命と複数世代を前提とする世代重複モデルでは、横断性条件は成り立たないことが知られている。次から次へと新しい世代が出てくる場合、資産残高がいつまでもゼロに収束しないのは当然のことだ。

奇妙なことに財政学者はこの世代重複のライフサイクルモデルを想定しつつ、「将来世代への負担の先送り」を論じている。
その詳しい構造はhimaginary氏の政府債務が将来世代の負担になる理由で解説されているが、そのロジックの根本は「これ以上債務が継続できないと判断した政府が、完済を決意する。」というところにある。

つまり政府債務を完済するなら、貯蓄手段としての政府債務が奪われ、貯蓄手段を失った世代(完済が行われた世代)がその分だけ損をするという構造になっている。(なぜならその世代は、その時点まで貯蓄する分だけ現在消費を減らしていたところを、将来の消費まで減らされてしまうことになるからだ)

このロジックの根本的におかしいところは、世代重複モデルによって横断性条件が失われているにも関わらず、後付けで「政府債務だけは完済されなければならない」という条件を追加しているところだ。政府債務の完済は、モデル上ではまったく自明ではない。また、”自由化されすぎた通貨供給”を国家化すべき理由 ―外部経済性を持つ財としての通貨で解説したように、政府債務は信用創造という性質のため通貨供給という側面を持っている

当然、通貨の完済は世代重複モデルでは前提とされていない。(むしろ逆に、現実経済を鑑みると、通貨は完済されず永続することが前提条件とみなされているように思える)

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追記:2016/3/27

世代重複モデルのイメージはこちら



uncorrelated氏からいただいたもの。

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また、同じ論点からバローの中立命題も否定することが出来る。
バローの中立命題は、「相続」に注目して、「仮に各人が利他的で、遺産を残すと仮定すると、現在借り入れ支出してものちの増税を予想して将来世代に資産を残すことになる。この過程で支出と同額の消費減少が生じ、財政効果は無くなる」とするものである。
バローの中立命題が成り立つとき、世代間格差は消滅するが、財政の無効性が表れることになる。
しかし、見てわかる通り、バローの中立命題も(本来自明ではないはずの)債務完済を後付けしていることがわかるだろう。世代間格差論もバローの中立命題も、自明ではない仮定を付け加えることでおかしな結論を導いている代物である。

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追記:2016/3/23

正確にはこのバローのDynasty model(王朝モデル)は、完全に利他的な貯蓄の発生を条件に、世代重複モデルと近似的に無限期間の個人モデル(まさに"王朝")として表現することで、代表的個人を復権する構造を持っている。このため、長期での横断性条件成立を要求することになる。
ただし、横断性条件が成り立つときは厳密に王朝モデルが成り立つときだけなので、実際の経済は、王朝モデルとOLGの間、おそらくそこそこOLG寄りに存在するものと解釈した方が自然かもしれない。

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(完済される必要のない債務であるという意味で、通貨、そして通貨供給の実態としての政府債務は本質的にPonziなものだ、と考えるべきなのである)


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追記:2017/8/10
横断性条件周りの議論については、新しく書いた「財政学は何を間違えてきたのかの方で改めて議論しなおしているので、そちらの方をご参照願いたい。

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このスタート方向の誤りから、どうあがいても間違うしかないのであるが、その後の議論もかなり怪しいものがある。

上に挙げたリンク先の通り、消費税は「痛税感が低い」「経済的負担が小さい」と考えられていた。
この根拠として「動学的効率性」を理解する必要がある。


参考:動学的効率性 ―himaginary


動学的に効率的な経済―――1人当たり資本が不足し、貯蓄によって資本を追加すると所得を増やせる経済――では、貯蓄を増やし投資を増やすことがパレート改善になる。

1人当たり資本の不足あるいは過剰とはどう定義づけられるか。

資本の追加による所得の追加が何らかの形で限定的な場合、現在消費を節約して貯蓄(すなわち将来消費)に回すことの利潤は小さくなる。
つまり、貯蓄⇒資本形成するよりも、その分だけ現在消費を増やしたほうが効用が改善する。
この場合、資本が過剰であると定義づけられる。

逆に貯蓄⇒資本形成を増やすことによる所得効果が消費の全体的な効用を引き上げることが出来る場合、資本が不足であると定義づけられる。

おわかりになったかもしれないが、財政学者を代表とする主流派経済学者は、動学的に効率的であることを暗黙の裡に前提にしている
だから、所得に対する課税(所得税・法人税)や累進性の強化によって貯蓄が減ると所得が減るから経済に悪いと考え、逆に消費に対する課税で貯蓄を促せば所得が増えるから、消費の所得効果によって経済の悪影響は小さくなると考えているのである。

このことが重大な過ちを抱えていることは明白だろう。
クルーグマンの流動性の罠理論を今更解説 その①で述べたように、バブル崩壊による広範な流動性制約が生じたり、人口減少が予想されたり、所得格差が拡大して流動性制約家計が増えたりすると、計画貯蓄が過剰・現在消費が過少になる流動性の罠が生じるのであった。
この場合、消費を抑制し、貯蓄を促す政策は、不況を深刻化させるしかない。(注意すべきは、経常収支とISバランス及び不況 -ISバランスにおける過剰貯蓄と不況論の過剰貯蓄の違い-で解説したように、貯蓄は投資の水準に制約されており、投資はしばしば消費の低下に追随して低下するため、貯蓄の純粋な増加が観察されるわけではないという点である。むしろ減少し得る)

その意味では、不況経済は動学的に非効率だと考えることが出来る。この場合、消費税増税は、経済的負担が少ない増税であるどころかむしろ経済的負担のきわめて大きい増税であることになる。
財政学者をはじめ主流派経済学者はこの点を見落としているとしか思えない。


この場合、経済的負担の少ない増税というのは、むしろ所得に対する課税、特に累進課税の強化であり、または支出を促すような税制(投資減税や、外形標準課税から法人所得税への付け替え)ということになるだろう。



しかしながら、初心を見失ってはいけない。
主流派が増税を戦略として導いたのは、そもそも「政府債務は完済されなければならない」という”後付けの設定”からである。消費税がどうこう、累進課税が云々というのは、その負担をどこに求めるかという話に過ぎず、その意味では同じ穴の貉である。

引用拙記事でも述べたことだが、変動為替相場を導入した独自通貨国において、自国通貨建て債務による財政リスクとはほとんどそのままインフレのリスクのことなのであり、それ以外の形式の財政問題は存在し得ない。このことを十分に理解しておく必要がある。



追記:同日


また、上記の議論を鑑みることで、佐藤主光がなぜ「消費税増税は社会保障充填による所得効果で相殺される」と主張するのかを理解できる。
主流派・財政学では、政府債務は横断性条件が成り立っており、したがって、借入支出というのはいついかなる場合であっても将来徴税による支出と等価である。(そうでない場合すなわち、Ponzi Gameである場合は、『破綻する』というのが彼らの口上だ。それはOLGにおいて自明ではないのだが……)
だから、彼らにとって、今の支出のファイナンスを国債で行うか増税で行うかに区別が存在しない。(債務完済仮定を置いているから)
この仮定においては、消費増税を先送りしたり凍結することと『No Ponzi Game』を両立させるためには、予定されていた社会保障を削るしかない……ということになる。この社会保障予想の不安定化がむしろ消費を抑制すると主流派・財政学は考えるのである。
逆に、消費増税をきちんと行うと、社会保障の維持が確定され、社会保障の安定化が予想される。このため、消費はその所得効果を受けて回復するというのが主流派・財政学のロジックなのである。

もちろん上記は、前提が間違っているので無効な論理である。(貨幣と対応する貯蓄手段としての)政府債務は完済されると予想されていないし、完済されるべきでもないから、調達手段として政府債務と増税は全く異なる影響を与えることになる。




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