『セネカ、精神的教導と哲学の実践』(5)― ストア哲学の二つの部分(2)「教説」 | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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ストア哲学は、「教化的部分」(« partie parénétique »)と「教説的部分」(« partie dogmatique »)とからなる。これがセネカの基本的なテーゼである。前者については、昨日、ルキリウス宛書簡第95番に基づいて記述されているアドのテキストを摘録した。今日は、後者についての記述を瞥見する。

「教説」の目的は、「教化」と違って、それぞれの立場に応じて個々人がそれにふさわしい行動をするための教えを与えることではない。「教説」は、人間の実存の全体にまで拡張される確信を授けることがその目的である。より詳しく言えば、人がそれにしたがって己の諸々の行動を導くことができ、それに鑑みて自分のしたことが善いことだと確信できる行動原則を与えることが「教説」のなすべきことである。

 

Les prescriptions enseignent ce que l’on doit faire, les dogmes comment (c’est-à-dire dans quel état d’esprit) on doit le faire ; en effet, les dogmes présentent à l’homme le but de son existence, elles définissent ce qu’est pour lui le bien suprême, celui auquel il doit aspirer et que toutes ses paroles et actions doivent prendre en considération, tout comme les marins s’orientent dans les courses à l'aide de quelque astre (I. Hadot, op. cit., p. 26).

 

「教化」が与える諸々の教えは、人がしなければならないことを教示する。「教説」は、人がいかに(つまり、どのような心の状態で)それをするかを説く。実際、「教義」は、人にその存在目的を示し、人にとっての最高善が何かを定義する。この最高善とは、人がそれを切望し、その人のすべての言動が考慮しなければならないものである。それは、ちょうど、船乗りが航海中に或る天体の助けを借りて方向を定めるようなことである。