密教4/天台宗・最澄(伝教大師)・円仁(慈覚大師) | 獨と玖人の舌先三寸

密教4/天台宗・最澄(伝教大師)・円仁(慈覚大師)

※初めて日本に天台教学(天台宗。大乗仏教)が登場するのは、鑑真によってです。
(鑑真は律宗との兼学でした。)

最澄は、密教を含めた仏教の全てを体系化しようと考え、四宗兼学としました。
帰国のち、日本天台宗を成立させます。
“すべての衆生は成仏できる”(法華一乗)と説き、奈良仏教と対立しました。長い論争の始まりです。

※奈良仏教→南都六宗→法相宗・倶舎宗・三論宗・成実宗・華厳宗(東大寺盧遮那仏坐像)・律宗。

※14歳で得度、最澄と改名。
※17歳で度縁交付(公式僧侶)。


1年後に空海が帰国すると、自身の学んだ中期密教は傍流であると知り、本流を学んだ空海(後輩、若輩、身分下)に頭を下げて、真言、悉曇(しったん。梵字の字母)、華厳の典籍を借りて研究します。
のち、灌頂を受けました。
次に“理趣釈経”の借用を申し出ましたが、文章修行を否定、実践修行あるのみと拒否します。以後、空海との交流記録はありません。
これにより天台教学への密教編入は中止になります。

最澄は、法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による“総合仏教”としての教義確立を目指していました。
これが事実であることを、円仁、円珍などの弟子たちがその意志(遺志)を引き継ぎ、密教を学び直していることから分かります。

天台密教の源流は最澄ですが、まさしく始まったのは円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師)からと言えます。
“天台宗”が、独立した宗派として確立したのは最澄没後です…。

3代目円仁の頃から真言化へ急進し、法華経が疎んじられていったため、日蓮はこの密教化、謗法化(誹謗正法)を批判しています。

※円仁(慈覚大師)――
えんにん。第3代天台座主。
入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)のひとり。
9歳、大慈寺に入り修行開始。
15歳、最澄帰国。すぐさま比叡山延暦寺に入り、最澄に師事。
※師からもっとも認められていたといいます。
最澄が止観を学ばせた弟子10人のうち、代講を任せられた唯一。
※奈良仏教との諍い、真言宗の興隆と、師と共に戦いました。


23歳、最澄の東国巡遊に従います。この巡遊の目的は、天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものでした。
※上野宝塔院、筑前宝塔院、豊前宝塔院、下野宝塔院、山城宝塔院、近江宝塔院。

※浄土宗開祖 法然は、円仁を私淑しており、最期の時は円仁の衣をまとっていたそうです。



◎止観行(しかんぎょう)――
天台宗の修行は、法華経の観心に重きをおいた“止観”を重んじます。
現在の日本天台宗の修行は、朝題目・夕念仏という言葉に集約されます。午前中は題目(法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法))を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法)を行います。
これは後に発展し、“念仏”という新たな仏教の展開の萌芽となります。
また、遮那業として、天台密教(台密)の加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めました。
さらに後世には、全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立します。

日本仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけ、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗など、新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出しました。

(法華経の教義が正しければ、なぜ念仏や加持を行わねばならないのか、疑問、そして批判が存在しています。)