"nuclear disaster" の時代に。 | あ~どうしたものか

あ~どうしたものか

社会問題=PTSD現象。

“郷土なくして人生なし”
ということで[複合汚染]時代をサバイバル、平穏死を子々孫々繋いで生きましょう。

『忘却のエチカ、失われた理想を求めて』
http://ameblo.jp/kmomoji1010/entry-12062264496.html
にコメントできないので記録。
コメントタイトル:
「子育て」=「人類存続」のエチカ
コメント内容:
万人が罪人(=原罪から逃れ得ない人間)であろうとも、人間である限りは「人格の尊厳」があるので、「正当防衛」または「逃散」の権利を有すると私は考えます。「正当防衛」または「逃散」、そして「セルフネグレクトの強要」を受容しないで自分の人生を組み立てる「基本的人権」が「世界人権宣言」で保障されています。

「空疎な大言壮語を慎み、偽問題に惑わされずに、真に解決すべき問題を順序立てて一つ一つ黙々と解決していく誠実さと謙虚さが日々の exercice spirituel には必要」という点に同感です。水源を守って生態系を守って、生態系の一部である人間もサバイバルをするというのも「真に解決すべき問題」です。
http://ameblo.jp/sannriku/entry-12062119604.html

http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-12061899345.html
に庶民による記事とコメントのやり取りあり。

原発事故後は特に、原発作業員さんを使い潰したら日本滅亡というだけではなく、地球の北半球も終わりだという現実から目をそらさないことが大事ではないかと思います。問題が深刻かつ重大であればあるほど目をそらしたい「逃避」や日本の科学技術なら原発事故何のそのと大言壮語に陥る「躁的否認」などPTSD症状が出て、現場でも解離性不注意
http://bit.ly/fuanDisorder
が蔓延して破局を招きやすいということがあると思われます。

追記:
http://ameblo.jp/sannriku/entry-12062264468.html
原発にかぎらず被曝作業を行う人や、汚染地にいて吸引被曝をする住民は、セシウムの自然排出に任せてはダメだということです。

http://ameblo.jp/sannriku/
予防原則に立ち戻り、予防治療が必要です。


「忘れ去るにはあまりにも重大な罪にもかからわず、その重みにほとんど押し潰されそうになりながら、未来に実現されるべき「理想」を再び見出し、それを次世代に託すべく語り続ける「理想主義的」態度を保持し続けることもまた、同じくらい大切な exercice spirituel」というのは、「"nuclear disaster" を起こすような人こそ真っ先に滅んでしまえ、自滅しろ、自殺しろ」という声に対して、「すべての学問は人類の福祉のために」と理想を掲げて、"nuclear disaster" の後片付けを放棄しないでサバイバルすることがその一例だと子どもにも言います。

それが「子育て」=「人類存続」のエチカではないでしょうか。




皆さまも、お大事に。


註)ポイントは、加害者も被害者も「なかったことにしない」ことでしょう。それは、ずっとネチネチと責め続けるということでもなければ、水に流すことでもありません。

シンガポールの故リー・クアンユー元首相の姿勢と、シンガポールと日本の市民の姿勢が「なかったことにしない」——「ずっとネチネチと責め続けるということでもなければ、水に流すことでもなく友好国の国民どうし接していく」というのがその具体例です。

シンガポールの故リー・クアンユー元首相の国葬には、日本の首相も参列したので、日本の市民は、首相が安倍晋三氏であることに一抹の不安を感じつつも、首相として日本人を代表して参列することに期待しました。
国葬参列への期待をブログに書かれた例:
http://ameblo.jp/alien-mind/entry-12006306490.html

残念ながら安倍晋三氏は「記念碑にぜひ参拝して、花を捧げ」るどころか、寝てしまったことは記憶に新しいところです。orz

そのようなことにならないためには、
"exercice spirituel" が必要ということです。
http://ameblo.jp/kmomoji1010/entry-12061916073.html


"nuclear disaster" の時代に。
http://bit.ly/1gLR1yX


皆さまも、お大事に。


追記:
"exercice spirituel"

"exercice physique"
と対になっているので、どちらか片方ということはありませんね。

西洋における "physique" については、
『高騰…教育…洋の東西…主体性のない知識取得の無意味さ』
http://ameblo.jp/aya-quae/entry-11990604750.html
で触れました。




追記:
コメントいただいたのに、コメレスできないので、本文に追記することにしました。

「何が罪として問えるか」については、貴ブログの最新記事にも、以下のようにコメントしようとしてもできませんでした。ついでなので、ここでお伝えしますね。

http://ameblo.jp/sannriku/entry-12062403979.html
へのコメレス:
コメントタイトル:
Re:Re:あれ
コメント内容:
>原発作業員直ちに予防治療国費で(katsuko)さん

原作は「ノンフィクション」のつもりで書かれたのでしょうが、
映画は、どうでしょう?
http://nihon-ichi.jp
原作と映画は違いますからね。

また、いくら原作が「ノンフィクション」のつもりで書かれたものであっても、
そこには必ず「虚構」=フィクションが入り込むものです。
参考:
小坂井敏晶『責任という虚構』(2008年、東京大学出版会)
http://bit.ly/1WvvdIs