3月のライオン 11巻 を読んだ! | スガ シカオ オフィシャルブログ コノユビトマレ Powered by Ameba

3月のライオン 11巻 を読んだ!


ハチミツとクローバーの頃から数えると、羽海野作品との付き合いももう10数年、羽海野さん本人とのお付き合いでさえも10年を超えるのか・・・長い付き合いになってきました。

最初に会ったのは、J-WAVEのTOKIO100の対談コーナーで、ぼくが出した会いたい人リクエストに応えてくれた羽海野さんが、六本木まで足を運んでくれた時だったかな・・・。

ちょっとだけ長いエッセイになりますが、お付き合い下さい。

ハチクロという作品は、4~5巻までとそれ以降では作品の抱えるテーマというか十字架が大きく異なるとぼくは思っている。
4~5巻まではそれこそ甘酸っぱくて、ドラマや映画になりやすい喜怒哀楽が主軸になっていた。
しかしそれ以降の中後半では、それぞれの登場人物が抱える闇と、他人の手では触れないその闇を、どうやって共有していくかという重い十字架を作品は背負うことになる。

ハチクロがあまり好みではないというぼくの友人は、4~5巻で読み諦めている嫌いがあって、もう少し読んでくれれば・・・と、苦い思いをしたものだった。


話を3月のライオンに戻す。
そうゆう深いテーマを常にチクチク触りながら、時にバカバカしく時にドキドキしながら読み進められる点では、3月のライオンはハチクロの上をいくハイブリッドな作品だ。

登場人物キャラ設定やリアルなロケーション設定も相まって、本当に現代の月島(一応架空の街ってことになってる)で起こっている物語であるかのような錯覚に陥る。
リアル下町育ちの自分には、この辺りがよけいグッとくる。

しかし3月のライオン10~11巻において、ぼくは羽海野作品の変化に戸惑った。ページをめくる指が、ちょっと重たく感じるほどに。


羽海野作品には『絶対悪』は出てこない。
もちろんちょい悪や悪役キャラ、意地悪な人はいろいろ出ては来るが、仮に結構な悪が出てきたとしても、その裏には深い闇と悲しみがあって、それゆえの悪、つまり読者が肯定できる範囲内での悪だった。

ところが3月のライオン10~11巻に出てくる悪(例のカッコーお父さんです)は、もうどうにも言い訳のしようがない、そしてフォローの入れようもない悪なのだ。物語上、今の所その登場人物に対するフォローはなく(今後あるのかもしれないけど)、読んでる側もかなり後味が悪く、それゆえ川本家側の家族観に猛烈な共感と、だだ漏れの感動を余儀なくされてしまうのだが・・・。

羽海野さんはなぜ、こんな悪を作品にぶつけてきたのか。
それはそうしなければ書けない『悪とは逆の感情』があったからに違いない。新刊でまだ未読の方も多いので、ネタバレは避けるが、そうゆう悪の登場でしか展開できない深い感情、そしてそうゆう悪との関わりの中でしか流せない種類の涙を描きたかったのだと思う。

死別の涙は誰でも共感できるし、心にメッセージが届く。けれど、それ以上に深い所にメッセージを投げ込もうとするなら、死とは逆の『生』にスポットが当たる。
3月のライオンに出てきた絶対悪(大袈裟ですが)というのは、生をよりリアルに浮き立たせるためのスポットライトのようなものだったのだ。

3月のライオンは、ハチクロ以上に実写やアニメ化が難しいと思う、もちろん簡単な作品などないと承知してはいますが・・・。ハードルを上げるつもりはないのだけれど、冒頭で述べたハチクロの中後半からの真骨頂が、羽海野チカ以外の再生装置では100パーセント再生不可能なのと同じく、3月のライオンが本当に狙っている核心の部分(そしてそれは、ぼくらをいつも感動させる部分)の再生作業は、気が遠くなるくらい難しい作業なはずだ。

とはいえ、あの物語が、あの登場人物たちが喋り、動き、あの下町で暮らすのを、実写で見れる日が来るというのは、まぁそれだけで心ウキウキするし、楽しみでしょうがない。

たぶん予告のディザー映像だけでワイン3杯いけるな、うん。
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