◆ハイブリッド・ミュージック1936年に咲く! | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<能あるセカンド!>>


以前、音楽でもビジネスでも

そうですが・・・。


音楽なら聴いてくれるヒトたちに。


ビジネスなら顧客に。



その存在を知ってもらう必要がある。


そのためなら売名行為も!


リスト獲得も!


しかるべきだ!


そうお伝えしたコトがありました。




「そうですね。」



「いくら良い音楽でも、


才能があっても、


商品が優れていても、



受け取る側(がわ)に

まずは知ってもらわなくては

ならないですよネ!」




それは綺麗事(きれいごと)とか

のレベルではなく、


プロフェッショナルだから

と言うコトかと

思います。





ところが、今日ご紹介するブルーズ・マンは

ヒトの前の出てきて


ガンガン演奏すると言ったタイプでは

ありません。



「なるほど。中にはそう言った方も

いらっしゃるのですネ!」




そうです。

彼はどちらかと言うとセカンドにつく

タイプでした。



しかしそれで埋もれてしまうコトが

なかったのです。



「なぜでしょうか?」



レコーディングに

彼をセカンドに起用した

ミュージシャンの

ほぼ全てのヒトたちが



ギターリストとしての

彼の驚くべく才能を

目の当たりにしたのです。



「それは素晴らしいですね。」


「サクセス・ストーリーの予感がします。」^^





<<チャーリー・マッコイ登場!>>


今日ご紹介するブルーズ・マンは

チャーリー・マッコイです。



(今日ご紹介するブルーズ・マンは
チャーリー・マッコイです。




彼の兄ジョーマッコイ、

それとジョーの


妻メンフィス・ミニーと一緒に

ジャグ・バンドと

カントリー・ブルーズを

通したプレイは


当時また新たなファンを

奮起させるコトに

なりました。



そして1936年に Harlem Hamfatsを

シカゴで結成。



(Harlem Hamfats)


そのサウンドがカントリー・ブルーズ、

アーバン・ブルーズ更には、

ニューオリンズのジャズと融合させたモノでした。


☆Harlem Hamfats - Wet It (1933)  ♪


☆ We Gonna Pitch A Boogie Woogie 1937 ♪


☆Weed Smokers Dream ♪



「まさにハイブリッドですね。」



そうです。

一旦この音が進化すると、

それは雪だるま式に増幅されて、



ルイ・ジョーダン、チャクベリー、

そして後のビートルズや

ローリング・ストーンズに

影響を与えたと言われています。



☆PAPA CHARLIE McCOY ~ Baltimore Blues♪


☆Last Time Blues........ Papa Charlie McCoy ♪


☆PAPA CHARLIE McCOY ~ Candy Man Blues♪





☆チャーリー・マッコイ Papa Charlie McCoy


チャールズ"パパチャーリー"マッコイ

としても知られている。



(1909年5月26日- 1950年7月26日)


アメリカ合衆国 ミシシッピー州ジャクソン生まれ。

アメリカの デルタブルース ミュージシャン、

ソングライター 、カンントリー・ブルース・ミュージシャン。



マッコイは、『パパ・チャーリー』のニックネームで

最も有名だった。



彼は時のメジャーなブルースの演奏者の一人となった。


ギタリストとマンドリンプレーヤーで、

ミシシピー・エリアで彼のバンド

The Mississippi Hot Footersでプレイした。



マッコイは、'Mississippi Mud Steppers'として

ボー・カーターと数曲を録音した。



カーターと録音されるトラックの1つに

Cow Cow Davenport

"Cow Cow Blues" があった。




最初の曲は、インストゥルメンタルは、

"The Jackson Stomp"としてリリースされた。




2回目のリリースは、マッコイによる歌詞とボーカルの

 "The Lonesome Train, That Took My Girl From Town"

だった。



彼らも "The Vicksburg Stomp" を

作詞して録音した、


それは O Brother, Where Art Thou?で有名な

Mike Comptonによる録音で復活した。


(O Brother, Where Art Thou?)




彼の素早い、敏感なギター・ワークは、

Tommy Johnson

Ishman Bracey

含むパフォーマーから、録音を豊かなものにした。



彼はしばしばWalter Vincsonと一緒に

1920年代後期に定期的に録音した。



彼は、1928年ごろにブルース歌手で

ギター・プレーヤーのGeeshie Wileyとデートをした。



(Geeshie Wiley



その後の年にジャクソン・エリアを通り抜けた、

 Mississippi Sheiks, Rubin Lacy, Son Spand

そして多くの他のデルタ・ブルースマンたちと

彼もまた参加した。



(Mississippi Sheiks)



(Rubin Lacy 左側)



彼も1930年代半ば、当時の義理の姉妹の

Memphis Minnieのバックについた。




(Memphis Minnie




スライド・ギタリストとしてマッコイは

Tampa Kidの名前で録音して、

"Keep On Trying"のタイトルでリリースされた。



マッコイも長年、

彼の兄弟(Kansas Joe McCoy)と

一緒にプレイした。


(Kansas Joe McCoy)



彼らは "The McCoy Brothers"のタイトルで

録音、リリースした。


彼は結局シカゴに移り、2つのバンドを作った。

"Papa Charlie's Boys" と彼の兄

Kansas Joe McCoyとの Harlem Hamfats




(Harlem Hamfats)



そして、それが1930年代の後半の間、

活動し、録音された。




 しかし、第二次世界大戦の間の

米国陸軍に対する勤めは、

背の低いマッコイのキャリアを

減らすものだった。


健康がすぐれなくて、マッコイは戦争の後

音楽に決して戻ることはなかった。



そして、彼は兄弟が死んだわずか2、3ヵ月後に

イリノイ州シカゴで1950年からの

麻痺性脳疾患で亡くなった。



彼ら両方は、Alsip(イリノイ州)の、

Restvale墓地に葬られた。



(Restvale墓地



マッコイの曲 "Too Long"

黒人、白人両方の

アーティストに数回録音された。


           (ウィキペディアより抜粋)

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