「このままでは人口が減って社会が維持できなくなる」という台詞をよく聞く。いわゆる「少子化問題」だ。よく言われるのは人口が減れば税や社会保険料を負担する人が減るという理屈だが、それだけではない。企業からしてみれば「消費者」が減るのだ。内需が減るのだ。経済規模は縮小する。


しかし一方で、「将来は人工知能が発達するから人工知能にできてしまう仕事はなくなる」とも言われる。いわゆる「技術的特異点問題」。「よりハイスペックな人間にならなければ生き残れないぞ」と脅す声すらある。数少ない職を奪い合うイス取りゲームが始まるということだ。


矛盾だ。この矛盾にどう対処すべきなのか、私たちは問われているのではないか。


人工知能が発達して人間の仕事を肩代わりしてくれるなら、人口が減っても社会の生産性は維持できる。人工知能は消費者にはなってくれないが、たとえば人工知能によって人間のやるべき仕事が半分になるというのなら、半分の人数の人間に対して2倍の賃金を支払えばいい。文字通りの所得倍増計画だ。理論上は消費も税収も社会保険料も2倍になる。社会を維持できる。


それなのに今、産業界の偉い人たちが「少子化対策」と慌てたように叫ぶのは、そもそも人工知能が発達したとしても、彼らには今のところ、一人あたりの賃金を上げるつもりがないからだ。社会として、大量の「負け組消費者」「貧乏納税者」「丸損社会保険料負担者」を、生かさぬよう殺さぬように抱えておきたいからだ。得をするのは「資本」側の人間のみだ。


そんな「少子化対策」のために生まれてくる子供など、一人もいない。


子供を欲しいと思っているのに、さまざまな状況からそれをあきらめる人がいるのだとすれば、そういう人の数を減らしたいと私は思うが、“現状の社会構造を維持するため”に、「産めよ増やせよ」と大合唱するのには反対だ。人口増を狙うより、国民一人あたりのGDPの高い社会を構築する方向に知恵を集めたほうが良いのではないか。生産量よりも生産効率を重視するということ。それであれば「ワークライフバランス」「多様な働き方推進」など、現在すでに顕在化しているニーズにも合致する。


「労働力が多いほうがいい」と、「量」に頼る発想を続けていれば、<頭数>の「量」の不足を<時間>の「量」で補う発想からいつまでたっても抜け出せない。その発想こそが長時間労働文化を維持している。その意味で、長時間労働を批判しながら少子化対策を訴えることは構造的に少なからず矛盾を含む。そこに気づかなければ社会のOS(オペレーティングシステム)は変わらないだろう。少子化対策議論も空回りを続けるだろう。


日本の地面を掘っても、石油は出ない。しかし、人工知能やIT技術に社会的投資をして、少ない人口でも維持できる社会システムやテクノロジーを世界に先駆けて「発明」すれば、それがそのまま次世代にも受け継いでもらえる金脈となり得る。(人工知能の危険性についてはここでは置いておくとして。)


そのための「思考実験」として、「少子化社会を受け入れる選択」をしてみることは大変に有効だと思う。資源はない、人口も縮小する、それらの現実をいったん受け入れて、みんなで知恵を絞ってその現実に対する現実的な対処方法を考えることで、社会のOSは変化し始めるのではないだろうか。その負荷が、発想の転換をもたらすのではないだろうか。そうすれば未来への希望が増し、結局人口も増えるのではないかと私は期待する。




※週刊「世界と日本」(2月15日発行号)に寄稿した文章に大幅に加筆して転載しています。