日本古代史の謎15 日本書紀の「推古紀」15年(西暦607年)7月条によれば、小野妹子を「大唐」に遣わしたとあります。しかし、当時の中国は「隋」の時代で「唐」の時代ではありません・・?
しかも、隋書倭国伝によれば、600年と607年に、倭王アメノタリシヒコが、使いを遣わして朝貢したとあり、607年に使いを遣わしたのは推古女帝ではないのです・・?
この二つの矛盾は、どう考えればよいのでしょうか?
Ⅰ.倭国が、小野妹子を遣わした相手国は「隋」であって「唐」ではありません。
まず、唐が中国を統一したのは618年で、607年はまだ「隋」の時代です。当時の倭国において最高の知的頭脳を有する日本書紀の編纂者が、うっかり使節の相手国「隋」を間違えて「唐」と記載したなど、とても考えられません。
私は、日本書紀の編纂者が、「隋」と記載すべきところを、故意に「唐」と記載して「推古紀」の信憑性を貶め、「推古紀」に記載してある事は疑ってかかりなさいと、警告を発していると考えます。日本書紀編纂の主宰者・藤原不比等の決定方針に対する、編纂者の秘かな抵抗なのです。「推古紀」には、この類の記載が他にもあります。
また、隋書倭国伝のアメノタリシヒコは男王だと考えざるをえません。アメノタリシヒコのヒコは「彦」「日子」「比古」などの男子に対する美称です。しかも、彼の妻は「キミ」と呼ばれ、後宮には女性が六、七百人いたとされるのですから。
Ⅱ.我々は、隋書倭国伝にみえる倭王アメノタリシヒコは、在位時代からみて、用明大王(在位588年~622年)だと考えます。
607年に、小野妹子は隋の皇帝煬帝に拝謁し、有名な「日出ずるところの天子が、日没する処の天子に・・」の国書を渡します。煬帝はこの国書に腹を立てましたが、翌608年、小野妹子が帰国する時に、裴世清らを使者として同行させました。
日本書紀によれば、推古16年(608年)4月に小野妹子は「唐」から帰国し、裴世清らとともに筑紫に到着します。8月に、裴世清は飛鳥の京(ミヤコ)に入り、天皇と会っています。しかし、その時に、推古女帝も聖徳太子も現れていません。
裴世清が飛鳥で会った天皇(大王)は、推古女帝ではなく男王アメノタリシヒコです。そして、アメノタリシヒコは、在位時代からみて用明大王(在位585年~622年)だと考えられます。
当時の倭王を推古女帝とする日本書紀の記事は虚構なのです。日本書紀は、推古女帝の存在に矛盾する事実を目立たないように記載するという独自の筆法により、倭国王が推古ではなく、アマノタリシヒコ=用明大王であったことを知らせているのです。
当時の倭国の大王は、用明大王で、推古女帝など存在していないのです。Ⅲ.では、日本書紀は何故、虚構の推古女帝が存在した事にしたのでしょうか?
それは、日本書紀は継体系王統が日本の唯一の王統であることを主張する ために、8世紀に継体系王統の下で編纂された正史であるからです。用明大王は、昆支-欽明ー用明と続く、昆支系の大王です。継体系と昆支系の皇位をめぐる激烈な争いは531年に始まり、645年まで続きます。
最初のうちは昆支系王統が勝者でしたが、645年のいわゆる大化の改新で継体系王統が最終勝者となりました。
8世紀の継体系王統の下で編纂された日本書紀の上では、587年以降の昆支系王統は抹殺されたのです。順を追って説明していきます。
まず531年、昆支系の欽明が、継体の死亡とともにクーデターを起こし、継体の息子安閑と宣化を殺して皇位に就きました。しかし欽明は、昆支系王統と継体系王統との和合を図り、継体系の宣化の娘石姫を大后とし、石姫の死後は、昆支系の堅塩媛(キタシヒメ)を大后としました。
そして、自分の死後は、両王統から交互に大王を出すようにしたと思われます。なぜなら、欽明の死後、石姫が生んだ継体系の敏達(在位572年~585年)が即位し、敏達の死後は、堅塩媛の生んだ用明(在位585年~587年)が即位しており、用明の下での王位承継者は、継体系の敏達の子押坂彦人大兄(オシサカノヒコヒトノオオエ)であったからです。
ところが用明と彦人大兄が、おそらく仏教興隆の政策で意見が相違して対立した結果、587年に用明が大軍を派遣して、太子の彦人大兄を殺害するという事件が起きました。日本書紀は、大臣の馬子が大連の物部守屋を殺した、いわゆる蘇我物部戦争として、この事件を記載していますが・・。
用明は、彦人大兄を殺した後、継体系王統から皇位承継権を奪い、父子相続制をとって、蘇我王朝の始祖となりました。587年から645年にかけて、倭国の大王の位は、馬子-蝦夷ー入鹿と継がれていきます。だから、その間の天皇として日本書紀にみえる、崇俊・推古・舒明・皇極の4人は、実際には即位しなかったのです。
ところが、645年のいわゆる大化の改新で、継体系の中大兄皇子が昆支系の蘇我入鹿を倒して、継体系が最終的に勝者となります。587年に、用明大王に皇位承継権を奪われた継体系の、用明大王に対する憎しみは、激烈なものでした。
用明大王が587年4月9日に、用明大王の勅旨に反対した彦人大兄から「太子」の地位を奪ったとして、日本書紀の上で、587年4月9日に「用明天皇」は死亡したと記録したと考えられます。
用明大王は実際には622年まで在位していましたが、日本書紀の上では、587年以降622年まで大臣蘇我馬子に貶められたでのす。以後、587年から645年にかけて存続する昆支系王統は、日本書紀から抹殺され、天皇家をないがしろにする悪逆な大臣蘇我氏に化かされたのです。
ところが、継体系王統にとって都合が悪かったのは、用明大王=蘇我馬子は、多くの業績を挙げた類稀な政治家でした。588年に回廊の範囲が四天王寺の2.5倍もある法興寺=飛鳥寺を建て、仏教を興隆させ、その他の多数の寺院を創建し、狭山池・依網池(ヨサミイケ)など多数の池を造ったりしています。
そこで、記紀編纂の主宰者・藤原不比等は、用明=馬子の業績を隠すために、用明の虚像として、さらに聖徳太子を創作し、用明=馬子の業績を聖徳太子に振ったのです。このように、用明大王・蘇我馬子・聖徳太子は同一人物なのです。
蘇我氏が臣下に貶められたので、587年から645年にかけて、大王の居ない期間が生じました。そこで、その間の虚構の大王、崇俊・推古・舒明・皇極がつくられたのです。しかし、その間、実際に倭国を統治していたのは蘇我氏の馬子-蝦夷―入鹿だったのです。
ちなみに、太安万侶は推古天皇と聖徳太子について書くのが本当にイヤだったとみえる。「古事記」推古条には彼女の摂政であるはずの聖徳太子の存在すら書かず、推古天皇についてたった三行書いただけで筆をおいている。
「古事記」用明条・崇俊情・推古条は極端に記載内容が少なくなり「打ち切り」に等しい手抜きがされている。
そこに、虚構の構築に従うことに疲れ果て、嫌になって投げ出してしまった太安万侶の姿が見てとれるように思える(太安万侶については山田昌生「神功皇后を読み解く」から引用)。
「蘇我王朝と天武天皇」 「蘇我氏の実像」石渡信一郎著を、ほぼ全面的に引用して、清水克彦の思いを述べています。