川上操六 03 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 明治戊辰の役には、操六二十一歲にして、薩軍の隊長中島健彥の下に屬し、分隊長として伏見に備へ、更に越後口、出羽庄內、函館の諸戰に從うた。之れで武人としての戰歷を得たから明治政府に仕へて、親兵隊に入り、中尉から大尉に進んだ。
 時に廟堂に征韓論が發生した。征韓論是非は、文治派と武斷派との衝突で、操六の敬慕する西鄕南洲は實に武斷派の大頭目である。而已ならず、彼れの先輩や鄕友は槪ね其派に屬して、南洲に隨うて歸國しやうとしてゐる。操六亦其誘ひに接して、行を共にせん事を要求せられた。固より情誼に於てはこれを拒む事が出來ないけれど、彼れは明治朝廷の武官であるから、義に於ては征韓論の雷同を輕々しくする事はならぬ。操六は遂に南洲に謁して、國家のために廟堂に留らん事を切に請うたが、南洲は肯はぬ。操六は强ひて論爭せず、多年の恩遇を謝して、暗に惜別の辭を陳べた。南洲深く說かず。互に敬と愛とを心裡に抱きながら袂を別つた。
 操六、二十七歲で陸軍少佐に進む、征韓論の風雲は愈急を吿ぐ。時に、父傳左衞門、鄕里に疾んで危篤との報知が来た。操六、遽に帰らんとして復た踟蹰する處がある。それは郷里では廟堂を悪むの輩甚だ多く、若し國に帰れば此等の過激派のために要せられて、再び東京に帰れなくなる。若し操六が此儘帝都に還らぬとなると、彼れの指導を受けてゐた青年武官が、如何なる向背に出るか豫知し難きものである。之れを想ふと、操六は此際一歩も帝都から離るゝ事をなし能はぬ。
 さればと云つて、垂死の父を顧みぬといふ事はできぬ。帰心は矢の如く、骨肉の情はひしひしと迫る。飜つて國家の現状を見れば、それを断つて大勢の逆転を防がねばならぬ。帰るが是か、帰らぬが是か、操六は公私の大問題の十字路に立つた。彼れの情緒は麻の如く乱れた。彼れの心臓は地獄の火に灸ぶられた。懊悩苦悶、遂に大義を護る所以に、帰郷を断念したのである。暫くの不孝は許されよ、我れ必らず名を揚げ家を興して父祖に報いん。禁衛の武将は輦轂の地に居るべきである。國家の大事の前には甘んじて不孝の汚名を忍ばん。父の病床に侍するには、実弟丈吉を遣り、我は東京に留つて君恩に盡さんと決心をした。丈吉乃ち兄に代つて鹿児島に還り、父を看護したが、父歿するに及び、家政を處理するために年を越えて留つてゐると、果して私學校黨擧兵に誘はれて其黨に加はり、兄弟敵對の位置に立つて、干戈の裡に相見える事になつた。運命の岐路に立つた操六の焦慮惱悶は、可なり深刻なものであつたに違ひない。



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