斎藤孝『雑談力が上がる話し方』(ダイヤモンド社)が売れているそうです。

「雑談力」とは何でしょうか。精神科医の斎藤環さんの書評を読みます。




「情報」でなく「情緒」の交換


精神科医は対話が治療道具だが、それでも私は雑談が苦手だ。タクシーや床屋では雑談がおそろしい。そんな私にも朗報が。なんと、本書を読めば雑談が自由自在になるという。

著者は教育学者だけあって、雑談スキルをいかに習得するか、実に優しく導いてくれる。曰く、雑談には結論もオチもいらない。あいさつ+αでいい。返しは一問二答以上で。オバちゃん相手に練習しよう。「ながら雑談」の薦め、などなど。なるほど、これなら私にもできそうだ。読んですぐに誰かに試したくなるあたり、そそのかし上手な本でもある。

「雑談力」
とは何だろうか。著者に代わって、本書の内容を一言で要約してみよう。それは、「無意味な会話をいつまでも続けられる能力」のことだ。弓の名人に弓が不要であるように(「不射之射」)、雑談名人は話題すら必要としない。女子高校生の会話などが典型だ。親密さを確かめあうための、情報量ゼロの雑談。私はこれを「毛づくろい的会話」と呼んで憧れている。

話題はどうでもいいかわりに、雑談の目標はけっこう高度だ。空気を読む、好意を伝える、上手にほめる、などなど。要するに、雑談が伝達するのは、情報ではなく情緒なのである。相手の情緒をうまくキャッチし、肯定的な情緒とともに返球すること。そう、雑談の神髄は、こうした非言語的コミュニケーションにこそある。うーん、やっぱり難しい。

その高度な雑談スキルが「生きる力」そのものだ、とまで著者は言う。ここで私は、ふと首を傾(かし)げてしまう。昨今のコミュニケーション偏重主義が、これでまた加速したりはしないだろうか。どうやら生きる力の弱い私は、うまく乗せられて場数を踏むしかなさそうだ。


(朝日新聞2013.5.26)





オバちゃんや女子高校生の会話を聞いて、「よくあんな内容のない話を長々としていられるなあ」と思っていた男性諸君、どうやらそれは我々の認識不足だったようです。

彼女たちがしていたのは情報の交換ではなく情緒の交換、斎藤環さん言うところの「毛づくろい的会話」を楽しんでいたのです。

男性は女性に比べて、情報伝達に重きを置く傾向があるように思います。だから情報量ゼロの雑談の価値がわからない。

でも雑談の神髄が、「相手の情緒をうまくキャッチし、肯定的な情緒とともに返球すること」にあるとしたら、相手との間に親密な関係を築くことに重きを置く雑談力は、情報伝達の上でも必要とされるスキルではないでしょうか。

なぜなら、「肯定的な情緒」の交換のないところでは、情報の交換すらスムーズにはいかないと思われるからです。

たとえば最近話題の橋下徹大阪市長は、自分の真意が正しく伝わっていないとよく嘆きますが、それは橋下さんが「相手の情緒をうまくキャッチし、肯定的な情緒とともに返球すること」に失敗しているからです。

意図的に仮想敵を作り、その敵を叩き潰すことで自分の意見の正当性を主張する橋下さんの手法では、互いに相手の意見をよく聞こうという「肯定的な情緒」が生まれる余地がありません。

私たちは相手との会話の中で、情報ばかりではなく、情緒も同時に交換しているのだということをもっと認識しなければならないのかもしれません。




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