名前 ――名2 | 獨と玖人の舌先三寸

名前 ――名2

・百官名(ひゃっかんな)――主に武士が称した官職風の人名をいいます。氏や名字の次、諱の前に入れて名乗ります。正式な官名とは若干異なる読みをするものもありました(蔵人は、官職は“くろうど”、百官名は“くらんど”)。


・輩行名(はいこうめい)――“輩行”とは“一族のうち同世代の者”という意味で、通常は兄弟のことを指します。輩行名は“輩行”のうちの序列(=出生順)を表すもので、太郎、次郎、三郎・・・といった名のことであり、今日でも日本人の名前として広く用いられています。また、太郎、次郎の前に一字をつける例もたいへん多いです。

これら太郎、次郎といった名乗りのはじまりは、遠く嵯峨天皇の時代に遡ります。
嵯峨天皇が第一皇子以下に対して太郎、次郎、三郎といった幼名を授けたことから、時代を追うにつれ一般に広まるようになりました。
武士としては、源頼義の嫡男 八幡太郎義家と名乗り、弟もそれぞれ賀茂二郎義綱、新羅三郎義光等と名乗っているように、平安時代には既に武士階級へ広まっていました。太郎、次郎の名乗りは時代が下って一層武士階級、町人階級問わず用いられましたが、武士階級が仮名(けみょう)なのに対して、諱を持たぬ町人は正真正銘の本名として用いました。


・仮名(けみょう)――江戸時代以前、諱を呼称することを避ける為に便宜的に用いられました。
仮名には太郎・次郎等の生まれた順にちなんだ呼び名や、京官の地下人たる“進”、地方官(国府)の次官である“介”“助”等の呼称を、武士が官職風に“~兵衛”“~左衛門”“~右衛門”“~之介”“~助”“~之丞”“~之允”“~之進”等と用いました。これらの名前は、律令時代に衛府に配備された人々が、徴用期間を終えて帰郷した際、任を終えた証として所属していた部署名にちなんだ名前を名乗ったのが始まりといわれています。とりわけ名誉ある名として領民階級の間でも尊ばれました。
時代が下っても――輩行名同文w


※パッと、思い当たる人物がいることでしょう。
図書(ずしょ)、内蔵(くら)、内匠(たくみ)、監物(けんもつ)、式部、治部、雅楽(うた)、玄蕃、民部、主計(かずえ)、主税(ちから)、
兵部、刑部(ぎょうぶ)、織部、大膳、大炊(おおい)、掃部(かもん)、采女(うねめ)、主水(もんど)、
外記(げき)、
弾正、
左兵衛(さひょうえ)、右兵衛(うひょうえ)、左近、右近、将監(しょうげん)、
舎人(とねり)、主馬(しゅめ)、帯刀(たてわき)、兵庫、
左京、右京、大弐、修理(しゅり)、勘解由(かげゆ)、etcetcetc…….


・通字――中国や朝鮮が、“ある人物の諱に用いられているものと同一の漢字を用いることそのものが、その人物の霊的人格に対する侵害だ”とする観念に対して、日本はその観念が強くありませんでした。
平安時代中期、漢字二字からなる名が一般的になってから後の日本では、“通字”あるいは“系字”という、家に代々継承され、先祖代々、特定の文字を諱に入れる習慣がありました。
典型的な例として、平安後期から現在に至るまで、皇室の男子の大半に用いられている“仁”の字が挙げられます。

河内源氏の“義”・“頼”、前北条の“時”、後北条の“氏”、秋田の“季”、千葉・相馬の“胤”、毛利の“元”、足利の“義”・“氏”、大内の“弘”、佐竹の“義”、長尾の“景”、上杉の“憲”、武田の“信”、織田の“広”・“定”・“信”、明智の“光”、浅井の“政”、島津の“忠”・“久”、細川の“元”・“護”、黒田・浅野の“長”など、類は枚挙にいとまがありません。このような“通字”・“系字”の文化は、先祖の名を避ける中国の避諱とは全く対照的な、日本独特の風習です。

ちなみに、日本では活躍した祖先の事績にあやかり、通字を用いるだけではなく祖先とまったく同じ諱を称する場合もあり、これを先祖返りと言いました。朝倉孝景、伊達政宗、毛利元春などがそうです。