読んだ本
戦争の罪を問う
カール・ヤスパース
橋本文夫訳
平凡社ライブラリー
1998年8月
(初出 責罪論 理想社 1965年3月)
Die Schuldrage
Karl Jaspers
1946
ひとこと感想
自分や自分の帰属する共同体、民族、国家を愛することは、自然な感情であるが、一方では、そうした感情が、同時に、他者や他者の帰属する共同体、民族、国家を憎むことと同致されることがある。しかし前者が肯定されたとしても、後者は決して許されることではない。両者は、区別されねばならない。区別ができるかどうかは、ここでヤスパースが訴えているように、自分の「罪」を問うことができるかどうかにかかっているように、私には思われる。
***
本書は、ヤスパースが戦後に、「ナチズム」とは一体何であったのか、「ドイツ国民」に問いかけたものである。
これを私は、原発事故に対する感受性の問題として、そして、最近の日本におけるナショナリズムの発現の仕方の問題として、読み替えたい。
***
「罪」とは、何か。
「殺人」で「罪」を問われない文化はない。
必然的に「罪」を問われる。
一部、例外として、「国家」や「共同体」が容認した場合、すなわち「死刑」を認めている国があるし、日本もそのなかに含まれる。
また、「国家」と「国家」とのあいだの「戦争」においては、敗戦国は、その闘争の敗北によって、「罪」を問われる。
とりわけ、捕虜や市民への暴力や、その他、非人道的な行為に対しては、厳しく罪が問われる。
ただし、後者もやはり、「戦争」においては、戦勝国の行為に対しては、ほとんど罪に問われることはない。
「勝利」とは、すなわち、自分たちが「被害者」であることの証を手に入れることである。
「降伏」とは、すなわち、自分たちを「加害者」として認めることにほかならない。
それゆえ、過去にニュルンベルク裁判や東京裁判は行われてきたが、原爆投下の罪を問うような裁判は、決して行われないのだ。
どうしても、敗戦国の国民は、理不尽な立場に追いやられてしまうために、自己の「潔白」を明らかにしようとする欲求が先行し、また同時に、他者に対しては、不寛容になる傾向がある。
本当に大事なのは、常に人は、絶対的な「被害者」にはなりえない、ということである。
つまり、常に「罪」がある、のだ。
ただし、「罪」と言っても、一般的に言われる「罪」と異なるので、ヤスパースは「罪」概念を再解釈する。
彼は、四つの罪が区別されなければならない、とする。
(1)刑法上の罪
(2)政治上の罪
(3)道徳上の罪
(4)形而上的な罪
ある言動が、いずれかに一つだけ、あてはまる、というのではなく、「罪」というものには、これらの四つの側面があ(りう)る、と考えるべきであろう。
説明するまでもないが、これらを簡単に説明しておこう。
「刑法上の罪」とは、「法」に対する違反に対するもので、個人が裁かれる。
「政治上の罪」とは、「国家の公民」であることによって引き起こされたもので、「個人」としてではなく「立場」や「役割」によって裁かれることになる。
しかし、政治的行為や軍事的行為であっても、その個人の「良心」は問われるべきだというのが、この「道徳上の罪」を提示している理由であろう。
なお、純粋に個人の犯罪の場合、この「道徳上の罪」は「刑法上の罪」と重ねられて問われことが多いため、ときに混同されることもある。
最後の「形而上的な罪」は、少々分かりにくかもしれないが、元の語に則して言えば「メターフィジカルな罪」である。つまり、具体的な「罪」ではなく、漠然とした、それでいて社会生活を営む人間として、無視のできないものを指す。
私たちは、ときに、直接自分がかかわっていないことでも、「決して他人事ではない」と考え、その立場になって考えることがあるが、まさにそうした態度とかかわる。
ましてや、ある「出来事」に対して、たとえ当事者でなくとも、傍観的立場にいることが多い昨今では、メタ-フィジカルな罪は、もっと真剣に考えるべきテーマである。
「傍観」とは言うが、その場に居合わせるのも、そのことを知っているのに知らないふりをするのも、罪深いことがある、ということを忘れてはならない。
ヤスパースはここに「神の御前で」(55ページ)という表現を用いているが、別段一神教的神は必要ない。
ただ、自分の良心にしたがって、とか、誰かが見ているかもしれない、とか、末代まで祟る、とか、いつか報われるときがくる、といった言葉を理解するなら、同じような観点から、この第四の罪は理解されるはずである。
メタフィジカルな罪、それは、自分の正当性を主張するのではなく、むしろ、自分の加害性を前提にものごとを考えるとおうことである。
***
さて、ヤスパースはこうした「罪」概念の再確認のうえに、「ドイツ人」と「ユダヤ民族」という二つの概念の調停を行おうとしている。
民族全体に対して、刑事犯罪を問うことは、ありえない。
ある民族に属している人びとがすべて同じような法律上の罪を負っているはずがないからである。
「また民族全体を道徳的に弾劾するのも不合理である。」(61ページ)
ある民族に属している人びとがすべて同じような道徳上の罪を負っているはずがないからである。
こうした過ちは、「民族」のみならず、「性別」や「世代」その他、さまざまな「類型」にみられる混同である。
「民族を一個の範疇と見て範疇的な判断を下すのは、どんな場合にも不公正なことである。民族を誤って一個の実体と見ることが、その前提になっている。その結果は個人としての人間の尊厳を奪うことになるのである。」(63ページ)
このことは、「日本人」と「在日朝鮮人」においても同様に理解することができるだろう。
いや、むしろ私たちにとっては、より重大な課題である。
形而上的な罪、それは、とても罪深いものである。
***
さて、もう一点、当ブログの本題にも、この思考は連接することができる。
このような、ヤスパースの問題提起は、原発事故においても、十分に妥当するものである。
個人の刑法上の罪については実際に、どこかの誰かが、菅直人や東電の社長など、原発事故に関わった人物を告訴しているが、問題は、この次元で済むはずがない。
また、ある組織、たとえば東電や民主党や、脱原発政党やその支持者などを非難するのも、今度は「政治上の罪」という次元に問題を還元してしまっている。
さらに、心情的に、低線量被曝の被害を受けるかもしれない不安に苛まれ、道徳的に、その罪を責めようとするのも、充分ではない。
重要なのは、メターフィジカルな罪として、原発事故を考えることなのではないだろうか。
すなわち、私たちがこれまで享受してきた電気の発電源の事故は、私たちの罪である、という出発点が必要である。
原発を選んできたのは、自分たちであり、事故を起こしたのも、自分たちである。
自分たちは、原発事故の被害者というだけではなく、加害者でもあるのだ。
戦争の罪を問う
カール・ヤスパース
橋本文夫訳
平凡社ライブラリー
1998年8月
(初出 責罪論 理想社 1965年3月)
Die Schuldrage
Karl Jaspers
1946
ひとこと感想
自分や自分の帰属する共同体、民族、国家を愛することは、自然な感情であるが、一方では、そうした感情が、同時に、他者や他者の帰属する共同体、民族、国家を憎むことと同致されることがある。しかし前者が肯定されたとしても、後者は決して許されることではない。両者は、区別されねばならない。区別ができるかどうかは、ここでヤスパースが訴えているように、自分の「罪」を問うことができるかどうかにかかっているように、私には思われる。
***
本書は、ヤスパースが戦後に、「ナチズム」とは一体何であったのか、「ドイツ国民」に問いかけたものである。
これを私は、原発事故に対する感受性の問題として、そして、最近の日本におけるナショナリズムの発現の仕方の問題として、読み替えたい。
***
「罪」とは、何か。
「殺人」で「罪」を問われない文化はない。
必然的に「罪」を問われる。
一部、例外として、「国家」や「共同体」が容認した場合、すなわち「死刑」を認めている国があるし、日本もそのなかに含まれる。
また、「国家」と「国家」とのあいだの「戦争」においては、敗戦国は、その闘争の敗北によって、「罪」を問われる。
とりわけ、捕虜や市民への暴力や、その他、非人道的な行為に対しては、厳しく罪が問われる。
ただし、後者もやはり、「戦争」においては、戦勝国の行為に対しては、ほとんど罪に問われることはない。
「勝利」とは、すなわち、自分たちが「被害者」であることの証を手に入れることである。
「降伏」とは、すなわち、自分たちを「加害者」として認めることにほかならない。
それゆえ、過去にニュルンベルク裁判や東京裁判は行われてきたが、原爆投下の罪を問うような裁判は、決して行われないのだ。
どうしても、敗戦国の国民は、理不尽な立場に追いやられてしまうために、自己の「潔白」を明らかにしようとする欲求が先行し、また同時に、他者に対しては、不寛容になる傾向がある。
本当に大事なのは、常に人は、絶対的な「被害者」にはなりえない、ということである。
つまり、常に「罪」がある、のだ。
ただし、「罪」と言っても、一般的に言われる「罪」と異なるので、ヤスパースは「罪」概念を再解釈する。
彼は、四つの罪が区別されなければならない、とする。
(1)刑法上の罪
(2)政治上の罪
(3)道徳上の罪
(4)形而上的な罪
ある言動が、いずれかに一つだけ、あてはまる、というのではなく、「罪」というものには、これらの四つの側面があ(りう)る、と考えるべきであろう。
説明するまでもないが、これらを簡単に説明しておこう。
「刑法上の罪」とは、「法」に対する違反に対するもので、個人が裁かれる。
「政治上の罪」とは、「国家の公民」であることによって引き起こされたもので、「個人」としてではなく「立場」や「役割」によって裁かれることになる。
しかし、政治的行為や軍事的行為であっても、その個人の「良心」は問われるべきだというのが、この「道徳上の罪」を提示している理由であろう。
なお、純粋に個人の犯罪の場合、この「道徳上の罪」は「刑法上の罪」と重ねられて問われことが多いため、ときに混同されることもある。
最後の「形而上的な罪」は、少々分かりにくかもしれないが、元の語に則して言えば「メターフィジカルな罪」である。つまり、具体的な「罪」ではなく、漠然とした、それでいて社会生活を営む人間として、無視のできないものを指す。
私たちは、ときに、直接自分がかかわっていないことでも、「決して他人事ではない」と考え、その立場になって考えることがあるが、まさにそうした態度とかかわる。
ましてや、ある「出来事」に対して、たとえ当事者でなくとも、傍観的立場にいることが多い昨今では、メタ-フィジカルな罪は、もっと真剣に考えるべきテーマである。
「傍観」とは言うが、その場に居合わせるのも、そのことを知っているのに知らないふりをするのも、罪深いことがある、ということを忘れてはならない。
ヤスパースはここに「神の御前で」(55ページ)という表現を用いているが、別段一神教的神は必要ない。
ただ、自分の良心にしたがって、とか、誰かが見ているかもしれない、とか、末代まで祟る、とか、いつか報われるときがくる、といった言葉を理解するなら、同じような観点から、この第四の罪は理解されるはずである。
メタフィジカルな罪、それは、自分の正当性を主張するのではなく、むしろ、自分の加害性を前提にものごとを考えるとおうことである。
***
さて、ヤスパースはこうした「罪」概念の再確認のうえに、「ドイツ人」と「ユダヤ民族」という二つの概念の調停を行おうとしている。
民族全体に対して、刑事犯罪を問うことは、ありえない。
ある民族に属している人びとがすべて同じような法律上の罪を負っているはずがないからである。
「また民族全体を道徳的に弾劾するのも不合理である。」(61ページ)
ある民族に属している人びとがすべて同じような道徳上の罪を負っているはずがないからである。
こうした過ちは、「民族」のみならず、「性別」や「世代」その他、さまざまな「類型」にみられる混同である。
「民族を一個の範疇と見て範疇的な判断を下すのは、どんな場合にも不公正なことである。民族を誤って一個の実体と見ることが、その前提になっている。その結果は個人としての人間の尊厳を奪うことになるのである。」(63ページ)
このことは、「日本人」と「在日朝鮮人」においても同様に理解することができるだろう。
いや、むしろ私たちにとっては、より重大な課題である。
形而上的な罪、それは、とても罪深いものである。
***
さて、もう一点、当ブログの本題にも、この思考は連接することができる。
このような、ヤスパースの問題提起は、原発事故においても、十分に妥当するものである。
個人の刑法上の罪については実際に、どこかの誰かが、菅直人や東電の社長など、原発事故に関わった人物を告訴しているが、問題は、この次元で済むはずがない。
また、ある組織、たとえば東電や民主党や、脱原発政党やその支持者などを非難するのも、今度は「政治上の罪」という次元に問題を還元してしまっている。
さらに、心情的に、低線量被曝の被害を受けるかもしれない不安に苛まれ、道徳的に、その罪を責めようとするのも、充分ではない。
重要なのは、メターフィジカルな罪として、原発事故を考えることなのではないだろうか。
すなわち、私たちがこれまで享受してきた電気の発電源の事故は、私たちの罪である、という出発点が必要である。
原発を選んできたのは、自分たちであり、事故を起こしたのも、自分たちである。
自分たちは、原発事故の被害者というだけではなく、加害者でもあるのだ。
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