読んだ本
レ・マンダラン ボーヴォワール著作集 第8巻
シモーヌ・ド・ボーヴォワール
朝吹三吉訳 
人文書院
1967年6月

原書
Les Mandarins
Simone de Beauvoir
1954

ひとこと感想

サルトルが「黄色人種だから原爆を落とした」と発言したという
ネット上の無数の書き込みの真偽を明らかにする。ネットは情報が伝播しているうちに歪められる可能性があるので注意したい。それにしても世間のサルトルの思想に対する無理解をまざまざと知る機会となった。

***

これまで、サルトル、ボーヴォワール、カミュらの原子力、原爆などに対する言論を読み返してきた。

▼ブログ記事一覧

サルトルと原子爆弾~「大戦の終末」(サルトル)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11799814296.html

サルトルと原子力~サルトルとの対話、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11772578988.html

カミュによる原爆投下批判~生誕100年にあたって
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11677484155.html

原発事故と「ペスト」(カミュ)
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11699792545.html

カミュ「ペスト」、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11716500510.html

彼らは、原爆投下が世界にもたらした深刻な影響を、戦後まもなく、かなり早い時期に書いている。

マスコミが米国に好意的に書いているのに対して、彼らははっきりと非難していた。

しかし、ネットはおそろしい。

こう発言した、という話題だけが切り抜かれ、独り歩きしてしまう。

「原爆が日本に落とされたのは、黄色人種だったからだ」という文言が語られた文脈を知ることなしに、その一文だけを引用することの危険性を考えずに、多くの人が引用している。

これは、このあと詳しく書くが、まったくの間違いではないが、やはり、間違いである。

サルトルは、別に原爆が落とされた根拠が黄色人種にあったということを言いたかったのではない。


そうではない、ということを、以下、ていねいに読み解く(以下、何人かのネットでの文章を引用するが、他意はありません。あしからず)。

***

まず、おそらく、おおもととなったのは、下記の記事であろうと推測される。

▼<参考資料> 本島等 「広島よ、おごるなかれ」を読んで
 http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/motojima.htm

ここでは、以下のように書かれている。長いが必要なので引用する。

「戦後フランスで最も活動的な作家ボーヴォワールの「レ・マンダラン」(1954年)に作者とサルトルとカミュが登場する。

 3人は南フランスを旅行中、新聞を買った。巨大な見出しで「米軍ヒロシマに原爆を投下す」
 日本は疑いもなく間もなく降伏するだろう。大戦の終わりだ…各新聞は大きな喜びの言葉を重ねていた。しかし3人はいずれも恐怖と悲惨の感情しか感じなかった。

 「ドイツの都会だったら、白人種の上にだったら彼らも敢えてなし得ていたかどうか疑問だね。黄色人種だからね。彼らは黄色人種を忌み嫌っているんだ」このようにフランスの新聞にとって原爆は大きな喜びであった。(7)(*原文註
 シモーヌ・ド・ボーヴォワール/朝水三吉訳 レ・マンダラン」(人文書院、1981年) p349)」

このように、この記事の文章では、「フランスの新聞にとって原爆は大きな喜びであった」とあり、「
彼らは黄色人種を忌み嫌っているんだ」と述べているわけであるから、「黄色人種を忌み嫌っている」のは「彼ら」であり、この「彼ら」がサルトルらを指すことはありえない。

「彼ら」は、
原文を読むと疑いなく「アメリカ人たち」にしかならない。

しかし、この引用自体、この会話を誰がしているのか、分かりにくくなっている。

これが、第一点め。

また、引用中の一部を強調したように、
フランスの新聞にとって原爆は大きな喜びであった一方で、サルトルらは、いずれも恐怖と悲惨の感情をもったのであって、サルトルはこの「黄色人種・・・」をしているのではない。

だが、
この一部を引用したブログや掲示板の書き込みの多くは、まるでサルトルが黄色人種に対する偏見に同調しているかのように読ませている。

この箇所の引用は、検索でみつけただけでも、たくさんある。
以下、いくつかを例示する。

▼例1 Yahoo知恵袋の回答

「フランスの哲学者サルトルは,原爆投下の第1報に接したとき,「アメリカも黄色人種相手だと思ってよくやるな。ドイツには絶対落とさなかったに違いない」と語り,戦争終結の大義に隠されたアメリカの黄色人種差別を批判しています。」(Yahoo知恵袋の回答より

サルトルは特に
はっきりと「アメリカの黄色人種差別を批判」しているというわけではない。むしろ、その後もう一つ別の理由として、ソ連や共産主義に対する威嚇であるということを強調しており、他のところでもこの理由を述べている。このことから考えれば、サルトルが「米国の原爆投下」自体を強く非難しているのは確かであるが、「アメリカ人は黄色人種相手だと思ってよくやるな」という言い方に依拠して人種差別論を展開するのは、やりすぎであろう。「間違い」とは言えないが、「批判をした」というほどのものでもないだろう。

▼例2 
日本人の気概を伝える授業

「日本に対するアメリカの差別意識が見られるとする意見がある。広島の原爆投下を知ったサルトルは『白人種の上にだったら彼らもあえてなしえたか疑問だね。黄色人種だからね~。彼らは黄色人種を忌み嫌っているんだ。』と述べたといわれている。」(
日本人の気概を伝える授業「原爆投下の真実」

この引用では「批判」ではなく「意見」とある。よって、この言い方は妥当のように思われる。だが、できることならもう一つのサルトルの「意見」も併記してもらえれば、より正確にサルトルの論点が伝わると思う。

▼例3 
3。祖先神・氏神信仰の天皇中心神話と排他的絶対神崇拝のキリスト教・ユダヤ教との400年の攻防!

「サルトル「(原爆投下を知って)白人種の上にだったら、彼等も敢えてなし得たか疑問だね。黄色人種だからね。彼等は、黄色人種を忌み嫌っているんだ」(3。祖先神・氏神信仰の天皇中心神話と排他的絶対神崇拝のキリスト教・ユダヤ教との400年の攻防!


ここでは「批判」や「意見」としてではなく、純粋にサルトルの発言の「引用」としてとりあげている。しかし、前後の文脈がないために、この引用にある「彼等」というのが、「白人種」にまで拡大される可能性をもたせている(意図的なのかそうでないのかは判然としない)。また、これをサルトルが語っているとすれば、「彼等」のなかにサルトルは含まれないことになるという矛盾を放置している。

▼例4 
歴史的速報@2ch 「原爆がドイツに落とされる可能性は無かったの? 2013年08月09日 18:30」

「24: 世界@名無史さん 2005/05/02 07:05:06 いや、フランスの要人が後にドイツなら原爆を落とさなかっただろうと語っているが、俺もそう思う。 白人ならやらん。
25: 世界@名無史さん 2005/05/02 08:35:04 その要人はサルトルだろ。慎太郎もノーといえる日本でそうかいていたな。でも俺は落としてたと思う。」(
原爆がドイツに落とされる可能性は無かったの?

フランスの要人が後にドイツなら原爆を落とさなかっただろうと語っている」のがサルトルということになっている。しかも、この書き込みによれば、石原慎太郎がその著書のなかでそう書いているという。これも文脈や前後関係を無視し、一文だけを取り出して肥大化させた例であろう。

▼例5 バナナ・ヒロシの「はーい!バナナです」

「フランスの3人の知識人、サルトルとカミュとボーヴォワールは南フランスを旅行中、広島への原爆投下を新聞で知った。「ドイツの都会だったら、白人種の上にだったら、彼らも敢えてなし得たか疑問だね。黄色人種だからねぇ。彼らは黄色人種を忌み嫌っているんだ」と、サルトルは言ったということである。」(
世界遺産は何のため)

これも、間違ったことを書いているわけではないが、
やはりもう一つの理由と考えたことを書かないことによって、サルトルが、この考えにのみ固執しているように読めてしまう。

ほかにも、無数にあるが省略させていただく。

気づくことは、これを引用している人たちは、この発言がどういった経緯で語られ、どういった文脈や前後関係があるのかを確認しないまま、原爆と人種問題に関係のありそうな「1節」を抜き出しているということである。

「白人」が原爆を日本に落とせた理由は、黄色人種に対してだったから、という自身の「思い込み」もしくは「信念」を強化したいがためであって、サルトルの真意はまったくここでは無視されている。

なお、「人種」と「原爆投下」を結びつける説明づけについては、以下の書ですでに類型化されているので、そちらも参照していただきたい。

 「天皇と接吻」第4章「原爆についての表現」(平野共余子)、を読む

つまりこうした「人種説」は、数多くある原爆投下への解釈の一つであり、それらはあくまでも「一解釈」以上のものではないにもかかわらず、「サルトル」という当時の高名な知識人の名前を持ち出すことによって、そうした「一解釈」を正統化、聖典化、固定化、絶対化しているのである。

***

それでは実際には、ボーヴォワールの「レ・マンダラン」では、この部分について、どのように書かれているか、とりあげてみよう。


まず知っておきたいのは、タイトル「レ・マンダラン」というのが、「ショアー」の監督、クロード・ランズマンによって提案されたもの、と言われていることである。

当時、ボーヴォワールとランズマンが恋仲であったことを、ここで思い出しておきたい。

ナチスによるユダヤ人たちへの暴挙を7時間以上にわたる多くの人へのインタビューで構成した映画「ショアー」で名を馳せたランズマンが、ドゥルーズの幼馴染で、サルトルの秘書を務めたことがあり、そしてボーヴォワールの年下の恋人でもあったということは、フランスの狭い知識人界の一端をみるようでもあり、また、ランズマンの立ち位置の微妙さを表しているとも言えるだろう。

また、
元恋人だった米作家のネルソン・オルグレンに本書は捧げられているが、中田平によれば、こうしたことができるのも、ランズマンとの関係によって精神的に安定していたからである。

それはさておき、本作は、小説でありつつも、ボーヴォワールの過去の体験(本書では戦後まもなくの頃)の記憶をもとに再構築されたものであるため、基本的にはフィクションではないが、かといって完全に正確な「記録」でもない。

ボーヴォワールがつくりだした、新たな表現手法であり、のちにクリステヴァが模倣的に「サムライたち」を書いたことがよく知られている。

そうしたことをふまえてか、登場人物は、みな本名ではなく、以下のように、職業なども替えてある。

登場人物
アンヌ(Anne Dubreuilh) ボーヴォワールがモデルで、精神分析医
ルイス(
Lewis Brogan) オルグレンがモデルで、米作家。アンヌと恋仲。
アンリ・ペロン(Henri Perron) カミュがモデルで、雑誌編集者。
ロベール・デュブロイユ (Robert Dubreuilh) サルトルがモデル、作家。
ナディーヌ(
Nadine Dubreuilh) ロベールとアンヌの娘。

以下、話が分かりにくくなるので、実在人物の名前を使うことにする。

この作品の
第五章で、アンリ、アンヌ、ロベールの3人、すなわち、カミュ、ボーヴォワール、サルトルが南仏の山へ旅行に出かけ、そこで、文学と飢えや、原爆などについて議論している。

自転車で3人が移動中、カミュの自転車がパンクし、思いもよらず、民家で一泊したあと、ある小さな町をみつけそこの一番大きなカフェに入る。

サルトルは早速新聞を買いに行く。

先に席についていたカミュとボーヴォワールのテーブルに新聞を置くと、次のような見出しが見える。

「米軍ヒロシマに原子爆弾を投下す」(349ページ)

ここで、この物語の日時が分かる。1945年8月6日から数日後ということになる。

3人とも、一言も発することなく記事を読む。

まず、ボーヴォワールが言う。

「死者10万人! いったい、何のためでしょう?」

もう、大戦は終結に向かっており、日本は降伏目前であったことをボーヴォワールらは理解しており、なぜ、「原子爆弾」を落とし、「死者10万人」という犠牲を出したのか、疑問を呈している。

戦争中だとしても、正当な「理由」がすぐには思いつかなかったのである。

サルトルが買ってきた新聞は、2紙のようである。

「セヴァンヌ新聞や、アルデーシュ新聞は欣喜雀躍の言葉を連ねていた。」(349-350ページ)

新聞の報道は、米国による原爆投下を強く肯定していたことが理解される。しかしカミュ、サルトル、ボーヴォワールらは、全くことなる感情を持っていた。

「3人はいずれもただ、恐怖悲惨の感情しか感じなかった。」

ここでは、積極的にボーヴォワールが語っている。

「アメリカ人たちはまず初め、威嚇することはできなかったのかしら?」

「人のいない土地で示威的な実験をするとか、何とかできそうなものだけど・・・。彼らはほんとうにこの爆弾を落とさなければならなかったのかしら?」

そう、ボーヴォワールは、具体的な理由が知りたかったのではない。

原爆を落とす理由などどこにもないはずなのに、なぜそんな愚行を米国はしたのか、と問うているのである。

そして、ここで言う「彼ら」は「アメリカ人たち」であり、その「彼ら」に対して、ボーヴォワールはその所業を非難しているのである。

これに対して、以下のようにサルトルは
応える。

「もちろん、彼らとしてはまず日本の政府に圧力をかける手段を探すことができた筈だね」

この「彼ら」も当然「アメリカ人たち」である。このあと、「問題」の発言となる。

「ドイツの都会だったら、白人種の上にだったら、彼らも敢えてなし得たかどうか疑問だね。しかし黄色人種だからね! 彼らは黄色人種を忌み嫌っているんだ」(350ページ)

引き続き「彼ら」とは「アメリカ人たち」である。

つまり、どう読んでもサルトルが述べていることは、「アメリカ人たち」のことであって、「白人種」全体のことではないし、ましてや、「彼ら=アメリカ人たち」であって「私たち=サルトルを含んだ白人種」ではない。

この文章は、「黄色人」が「原因」で、「原爆が落とされた」のが「結果」なのではなくい。

ありえないはずの「原爆が落とされた」ことへの「理由」をあえて探すとすれば、「彼ら(米国人)」が敵は「黄色人だから」それができたのではないか、という「可能性」を語っているだけであり、この「理由」が正当なものであるとサルトルは思っているわけではないのである。

続いてカミュが発言する。

「一つの都市全体が飛散した! いくらなんでも彼らも後味が悪いだろうな!」

そう、この会話はずっと「彼ら」すなわち「アメリカ人たち」のことが語られているのである。

また、もっと重要なのは、サルトルが必ずしもこの「人種」を理由にした説明で終わっているわけではない、ということである。

「おれはもう一つの理由があると思うね」に続く、以下の会話は、必ず読まれなければならない。

彼らは自分たちがどんなことをなし得ているかを全世界に示すことで大満悦なんだよ、こうしておけば、彼らは誰にも文句を言われずに自分たちの政策を遂行することができるからね」(350ページ)

むしろこの説明のほうが、以後もサルトルがたびたび繰り返しているもので、要するに戦後体制を米国に有利にするために、特にソ連への威嚇として、米国は原爆を投下したという考えである。

サルトル自身が当時葛藤していたのは、フランス国内において、共産党との関係が悪化し、対立を深めていたことである。

この見地からは、原爆は「米国=資本主義社会」が「ソ連=共産党」につきつけたものであり、世界の共産化を封じるためにどうしても必要だったということになる。

さらに言えば、まるで自分(たち)もまた、その暴力に圧倒されかねないのではないかという危惧があったことが伺える。

・・・このように、サルトル(=ロベール)が言ったセリフは、ネットでは大きく誤解されたまま、独り歩きしてあちこちに流用されているのである。

お願いだから、原爆投下と黄色人種を結びつける議論に、サルトルの名前をもちださないでいただけないだろうか。

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