名前 ――氏3 | 獨と玖人の舌先三寸

名前 ――氏3

(前頁継続)
・南北朝時代以降。嫡子単独相続が主流となり、このような形での名字の拡大は収まりました。つまり一族の所領は兄弟で分割相続するのではなく、嫡子が単独で相続するため、嫡子以外の兄弟はその配下となり、独立しないため、新しい名字を名乗ることが少なくなったのです。

室町~江戸時代。本姓はもっぱら朝廷から官位を貰うときなどに使用が限られるようになり、そのような機会を持たない一般の武士は、本姓を意識することが少なくなりました。事実、江戸幕府の編纂した系図集を見ると、旗本にも本姓不明の家が散見されます。
一方で、一般人でも朝廷に仕える時は、源平藤原といった適切な本姓を名乗りなさいとなっていたようです。また、一部の学者等が趣味的、擬古的に名乗ることもあったようです。
名字は支配階級の象徴として固定化されました。しかし、本姓の有無は支配階級の象徴として本質的なものではありませんでした。

武士の場合、名字の下に直接接続するのは通称で、諱を直接つなげることは明治時代までありませんでした。諱を直接つなげる場合は、本姓に対するのが通常で、下級武士においては通称のみで、諱を持たない者が多くいました。

明治政府も幕府同様、当初は名字を許可制にする政策を行いました。幕府否定のため幕府により認められていた農民町人の苗字および賜姓による“松平”の名字を禁止(前後とも慶応4年)する一方、政府功績者に苗字帯刀を認めることも。
明治2年7月以降、武家政権より天皇親政に戻ったことから、“大江朝臣孝允木戸”のように本姓を名乗ることとした時期もありましたが、公家出身の者はほとんど藤原姓、武家出身の者はほとんど源姓など、源平藤橘が84.6%を占めました。時代にも合わなかったためか、早々廃止に。

明治3(1870)年。法制学者細川潤次郎や、戸籍制度による近代化を重視する大蔵省の主導により名字政策は転換されます。9月19日の平民苗字許可令、明治8(1875)年2月13日の平民苗字必称義務令により、国民はみな公的に苗字を持つことになりました。この日にちなみ、2月13日は「名字の日」となっています。明治4年10月12日には姓尸(せいし)不称令が出され、以後日本人は公的に本姓を名乗ることがなくなりました。氏・姓は用語も混乱していましたが、この時点で太政官布告上は、いわゆる本姓は“姓”、氏・名字は“苗字”、かばねは“尸”というように分類されたのです。

・明治以前の名字は先祖伝来の名を名乗るものとは限らず、地元の有力者に倣って名字を変える者などがおり、血のつながりとは無関係に同じ集落の家の苗字がみな同じということも起こりました。中には自分の苗字が分からないため、神主や僧侶、名主 などに頼んで適当な苗字をつけてもらったというような話もあります。自分で苗字を創作して名乗る者もありました。このため現代の名字が、武家や公家と同じ名字だからといって必ずしもその子孫とは全く言えず、多くの場合、正確な由来を追跡することは困難です。

明治3(1870)年 。それまで身分的特権性を有していた苗字を平民も自由に公称できるようになり、苗字の特権性が否定されます(平民苗字許容令)。明治以前の姓(氏)と名字(苗字)の二重制度が廃止され、姓(氏)=名字(苗字)として一元化され、自由に名乗れることとされたのです。
明治5(1872)年 。壬申戸籍が編纂された際、戸主の届出によって、戸籍へ登録する氏が定められることとなります。それまで、朝廷で編纂される職員録には伝統的な氏(うじ)と諱 が用いられてきましたが、多くの戸主は籍への登録は苗字家名を以てしました。

※明治4年4月の職員録では、“右大臣従一位藤原朝臣實美三条”のように“氏・姓・諱”の下に小文字で苗字が記されていましたが、同年12月の諸官省官員録では“太政大臣従一位三條實美”と表記されています。
越智宿禰博文→伊藤博文、
菅原朝臣重信→大隈重信、
源朝臣直正→鍋島直正、
藤原朝臣利通→大久保利通、
藤原朝臣永敏→大村益次郎、など。
この壬申戸籍によって、国家が公的な場面で旧来の“藤原朝臣●●”などの名称を用いる場面は皆無ではないがなくなりました。伝統的な氏(うじ)の用法はこの時、事実上ほぼ途絶しました。